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長部日出雄『津軽風雲録』

書き出しの一文だけカバーに記し展示してるコーナーが
福生市立図書館にある由、本書なんかヤバいぞ^_^;

長部日出雄『津軽風雲録』(富士見書房時代小説文庫,1988)の書き出し(本書5頁)は、

  着物の前をひろげ、褌をずらして、手探りをした。/
  ――ない。/
  なくなっている! 藤助は愕然とした。・・・

博奕で負け続けているうちに次第に萎縮したソレが、有り金の全てを失って、
「ついに下腹部のなかへ姿を没してしまったらしい」ことに立小便をしようとして気付く、
という衝撃・笑劇的なシーンから物語が始まるからね^_^;

紀伊国屋書店が前にやったブックフェアからヒントを得たという
同図書館の取り組みを報じている記事(パブリシティ?)を目にしたけど、
小生が本書を借りたのは、勿論、この書き出しに惹かれたわけではない^_^;
津軽為信や津軽地方の戦国時代を描いた時代小説というので予約した次第(^^)

津軽為信や津軽地方に特別な興味があるわけではないけど
(東津軽郡なら用があって小湊駅に3回行って駅から20分歩いた^_^;)、
南條範夫『武家盛衰記』(文春文庫,新装版2010)の「津軽右京大夫為信」の章と、
海音寺潮五郎『新装版 列藩騒動録(下)』(講談社文庫,2007)の「檜山騒動」の章は既読で、
本書も面白そうだったから(^^)

本書は会話部分が全編を通じて津軽弁なので、
なにしゃべってるんだか、さっぱりわがらねえ(;_;)
・・・ということはなく(ヒアリングだったら無理!)、
漢字仮名交じり文だから、フツーに意味は読み取れた^_^;

それなりに面白かったけど、結局のとこ、為信は姦雄なのかな^_^;
とまれ、武蔵野次郎が本書273頁で「歴史小説の分野に新風」と「解説」するように、
本書のように、津軽地方という、言わば〈辺境〉の戦国史を主題化することは、
◎平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望~天正壬午の乱から小田原合戦まで』
(戎光祥出版,2011)が言うのとは違った意味で「大国中心の歴史叙述を相対化」してくれる(^^)

ただ、大雑把なものでいいから、奥羽の北部の地名だけでも記した地図を付けてほしかった(..)

津軽家のことも取り上げてた本を昔の手帳の記録からメモ(^^)

◎高澤[さわ]等『戦国武将 敗者の子孫たち』(洋泉社新書y,2012)
 ~石田三成の子孫との絡みが書かれてたことは記憶あり(^^)

・榎本秋『外様大名40家~「負け組」の処世術』(幻冬舎新書,2010)
 ~内容は何一つ思い出せぬ(+_+)

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金子史朗『世界の大災害』

大災害の事例から、その人災的側面を剔抉し、
伝承や古記録による歴史研究を軽視することの愚も説く
金子史朗『世界の大災害』(中公文庫,1988)を読み終えたのは昨年9月末^_^;
本書の全てを完全に理解できたわけではないが(偏に小生の能力不足のため)、
多くを学び、色々とインスパイアされた良書ゆえ、即ブログにノートし始めたところ、
古川武彦『気象庁物語』(中公新書,2015)なる愚書を10月に釣り上げてしまった(-"-)

  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-10-07

そこで書いた通り、同書のデタラメぶりが次々と分り、「追記」の連続で疲れてしまい、
本書について纏める作業は中断(+_+) んで、愉しい本が続き、癒えたので、作業再開(^^)

先ずは、外国の地名等は頭に残りにくいので、各章タイトルを国名・地域名を補ってメモ^_^;

  モン・ペレーの噴火[西インド諸島仏領マルチニーク島]~天国と地獄 7~39頁

  カラカス地震[ヴェネズエラ]~近代文明の試練 40~64頁

  サンアンドレアス断層[カリフォルニア]~呪われた黄金郷 65~95頁

  リツヤ湾の巨浪[アラスカ]~目撃された史上最大の津波 96~131頁

  桜島大正噴火~灰砂からの逃亡 132~179頁

  アッサム地震~はげ山の一夜[インド] 180~204頁

  ヴァイヨン・ダムの悲劇~抑圧からの解放[イタリア] 205~227頁

  ネバド・デル・ルイス火山~泥海に呑まれたアルメロ町の悲劇[コロンビア] 228~272頁

  また三宅島が燃えた~一九八三年の割れ目噴火 273~311頁

ヴァイヨン・ダムの悲劇は「バイオントダムの崩壊」として、昨年9月27日に取り上げた
荒川秀俊『お天気日本史』(河出文庫,1988)の89~90頁でも紹介されていた(^^)

  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-09-27

おそらく斯界での評価も受けてであろうと想像するが、本書は
三省堂新書(1974年)→ 三省堂選書(1978年)と何度も刊行されており、
この文庫化の際には、章の削除と追加、更には各章で改稿・修正も行なわれた由。
お蔭で、東大地震研の中村一明と、リツヤ湾の巨大津波の爪痕を積極果敢に調査・報告した
故ドン・ミラー博士の未亡人&娘との偶然の出会いを本書が齎し、その邂逅による「感動」を
中村が生前に著者へ手紙で伝えてきたという、いいエピソードまで紹介されていた(^^)
このように本書は、国内外の大災害事例を詳細かつ批判的に紹介・解説するとともに、
スポットライトの当たりにくい、知られざる調査・研究の先人の業績をも顕彰している
(その功績に対する母国での報われ方が「あまりにささやか」だと嘆いているほど^_^;)。
それらの事例・学者から今後の我が国への教訓を引き出して提言・注文・批判も行なってる(^^)
故に啓蒙的でありながら前衛的で、教わることが多いだけでなく、大変インスパイアされたし、
また時にはまるで詩のような名文だったりして、小生にとって古典的名著になったね(^^)
〝古典的〟とは、流石に我が国の災害対策も本書刊行時からは少しは改善しただろうし、
また災害研究も進んだだろうから、記述が古くなってるかもしれないため^_^;

では、以下、本書で小生が気になった件を取り上げ、後学のためにノートしていく(^^)

本書231頁の「健気で可愛らしい少女オマイラ・サンチェスちゃん(十二歳)」には涙した(;_;)

  オマイラちゃんは発見当初、高まる水かさと闘いながら、作業を続ける救援隊員たちに、
  「おじさんたちも少し休んで、それから助けてちょうだい」、と健気なことを言っていた
  という。しかし、首まで浸って泥中に三日、動けないでいた少女は、衰弱が激しくなって
  いった。数十人もの救急隊員たちも水につかりながら、歌の好きな少女のために、
  作業を続けながら一晩中歌い続けたという。

また素人考えではありえない事実・現象も紹介されていた(@_@;)

本書98頁

  しかし高波の原因は・・・直接地震が原因で生ずるもののほかに、地震を引き金とした
  崩壊や地すべりが原因のこともある。火山の噴火・陥没を引き金とすることも、世界では
  まれな現象ではない。位置によっては、津波は湾奥から湾口へと向かうこともありうる。

本書227頁

  ロンガローネの町では洪水は下流から押しよせ、住民は全滅した。
  水は低きにつくが、出水量が大きければ、逆流もあるのである。

素人料簡は危ないことが分かる話も(+_+)

本書17頁

  この日(七日)の午後、一六〇キロ南のセント・ヴィンセント島の火山スフリエール噴火
  の報が町に伝えられた。この凶報は、噴火におびえきっていた人びとになぜか安堵感を
  与えた。というのは、素人目にはスフリエールの噴火はモン・ペレー火山の圧力を解放し、
  それによってペレーの破局は防げるのではないか、と思われたからである。この運命の夜、
  ある程度の安心感を抱いて、人びとはめいめい家に引きあげたのである。

この素人判断に加え、選挙の投票日が10日だったので、党派対立から「・・・どうにでもとれる
政治的配慮のある発言や、新聞の論説、・・・」(本書26頁)が民衆を惑わし、町から脱出させず、
4万人いたサン・ピエールの町は8日のモン・ペレー噴火で壊滅し、難を逃れたのは僅か2人(@_@)
その1人は地下牢にいて助かった死刑囚で、正視できないほどの火傷を負ったが、罪は許された。
でも、余生は「サン・ピエールの囚人」としてサーカスの呼び物にされたというのは酷い(+_+)

この最初の章を読んできて、結論部分(本書39頁)で述べられていた災害観は重たかった(-"-)

  自然界には、ときとして、途方もない大事件というものが稀にあるものだ。・・・しかし、それは
  あくまで自然現象であって、それと係わる社会のありようによっては、たんなる変災が
  大災害の様相を帯びてくる。/そのような意味では、すべての災害は人災的側面を持つ、
  と言える。そこには政治状況や科学者や社会の経済的思惑が色濃く影を落している。
  行政の認識と行動力ないしは力量が問われるし、学問的コミュニティの働きや、
  マスメディアのレベル、姿勢も問われる。ことに報道の手ぬるさ、科学者との癒着の弊
  なきにしもあらずで、改めて真相解明の難しさも痛感されるのである。/
  「災害は忘れた頃にくる」という寺田寅彦の言葉は、よく引かれるが、寺田の真意は
  その言葉のあとに続くところにあるのではなかろうか。

この「すべての災害は人災的側面を持つ」点は再三強調されている。例えば、本書95頁では、

  来たるべき地震なる自然現象は、人間社会というスクリーンを通して、人災へと転化する。
  そのような社会では、単なる自然の寝返りも、ゆるがせにできぬ災害の様相を帯び、
  むくむくと巨大化することになるだろう。

また他の事例も人災だったことが指摘されている(+_+) 本書261~262頁では、

  ・・・とうとうルイス火山は噴火した。活動の最初の徴候が気づかれてから一年後である。
  噴火一ヵ月前には、ハザード・マップも公表されている。その図に示された通りの災害が
  目のあたりに起こってしまったのである。/国際的な火山学者個人やチームの助力があって
  緊急対応戦略が十分練られていたことは、ルイスに精通した米地質学者[ダレル・]ハード氏
  の記事からも伺えることである。警戒宣言は発令になっていたと言える。だが、惜しいこと
  には、泥流発生に際して最大の危険にさらされるであろうアルメロ町住民の緊急脱出は成功
  をみなかった。退去はなかったのだ。/最後的な住民避難の勧告が通じなかった。いや、
  無視されてしまったようである。肝心の緊急時対応の未熟による「人災」と糾弾されても仕方
  がない。/・・・せっかくアルメロ町に伝えられた避難勧告は、どうやら町の有力者らの誤解と
  先入観に満ちた判断と、独断的発言力に支えられ、〝没〟になってしまったらしいのである。

ただ、「たとえ人災だとしても」という節見出しで(本書268~269頁)、

  わたしはここで災害観を述べようとは思わない。もともと自然災害などというものは
  ありえない。災害は多かれ少なかれ人災的要素を持っている。だが、「災害は人災でしか
  ありえない」といえば、またついてゆけない。いま言えることは、アルメロ災害を
  広い視野の中でとらえ、考える必要を痛感している。

この「広い視野」云々は本書269~270頁の指摘につながるのだろう。

  つまり、アルメロ町は、そもそも雪融けの洪水や過去の泥流が、なんども通過して築いた
  土地なのである。宿命的な場所ではあるが、手の打ちようがないわけではない。洪水主流
  による直接的破壊を減殺する導水路、防壁などの護岸工作物の建築である。/堅固なダムを
  築いたとしても、たちまち土砂で満杯となるだろうから、あまり効果はあるまい。/
  せめて過去の災厄の伝承でも掘り起していれば、津波ではないが、万一の場合、
  高台に逃れて災害をかわすことはできただろう。

なお、「堅固なダム」とは、ハード・レポートにもある「土砂留めダム」が念頭にあり、これが
「結局、この町の命取り、少なくとも、これさえなければ、死者はずっと少なくて済んだこと
だろう。」(本書267頁)という著者独自の指摘もなされている。

この「広い視野の中でとらえ、考える必要」性から、「過去の災厄の伝承」に着目する理由は、
本書220~221頁から読み取れる。

  すべての災害には強い個性と、地域性ないしは風土性がある。しかし、同時に、共通した
  パターンを見い出すことができる。災害が起ると、わたしたちはそのあとでいろいろな
  問題点を指摘するのを習いとしている。しかし、それがなんらかの形で生かされなくては
  なんの意味もないし、犠牲者も浮ばれない。/ヴァイヨン・ダム災害についての指摘も、
  多くは地質ないしは土木工学など、おもに技術者側からの発言であった。・・・/・・・
  地すべりの危険は九月下旬には十分切迫していたし、十月に入ると、動物たちは地すべり
  斜面からいちはやく姿を消している。技術者たちは地すべり匍行が、ダムの水位の上昇と
  かかわりのあることをも知っていた。しかし、電力会社は、この事実の公表をさけ、
  もっぱら水位を最高許容量の七二五メートルまで上げようとつとめていた。/地すべりの
  移動がいちじるしくなった十月に入って、電力会社は所轄の県当局に通知したが、ダムの
  すぐ下流はべつな県で、こちら側はなにも知らされていなかったという。・・・官僚的な県当局
  の形式主義、なわばり主義の姿勢と、電力会社の営利主義こそ批判されなければならない。
  /しかし、批判の一部は住民側にも向けられよう。・・・/さて、技術者たちはその最後の
  瞬間まで、地すべりの移動を阻止しようと懸命になって努力していた。その努力は大いに
  評価しなければならない。しかし、その努力がダム建設前にこそもっと払われていたら、
  という気がしてならない。近視眼的な技術主義の優位が、先史時代におけるヴァイヨン峡谷
  の地すべりの故事について十分な評価を与えることをさまたげたのであろうか。

「近視眼的な技術主義の優位」か、気象観測システム・技術の開発の歴史にばかり頁を割き、
黒歴史には触れず、歴史を捏造して民間企業の功績を役所に横取りさせた愚書を思い出す(-"-)
  
ソレはさておき、「すべての災害には強い個性と、地域性ないしは風土性がある」ことから、
本書は災害についての歴史研究の必要性を訴えているわけだ。本書242頁でも、

  火山性地震活動の最終的段階は噴火である。それに先立って地震が多発することはよく
  知られている。しかし、火山にも人間と同様、〝くせ〟とか〝個性〟ともいうべきものが
  ある。いちがいに一般論は禁物であり、その近視眼的判断を避ける意味でも、
  噴火史への展望は欠かせないのである。

また本書290~291頁でも、  

  さりげない過去の記録のなかに、現在の噴火を客観的にみる鍵が隠されているかも
  知れない。そういう意味では、過去は現在を映す鏡にちがいない。/しかし、地球科学の
  原理の一つとして、「現在は過去の鍵」(The present is the key to the past)という
  のがある。英国の地質学者ライエル(1797~1875)の言葉である。本来の意味は、
  日常みられるごくふつうの現象の積み重ねの結果として、今日の地球の姿がある、という
  のである。/今回の三宅島の噴火の知識は、私たちの過去の読みを深くしてくれよう。/
  わたしも、じつは一九六二年の噴火記録を一読したとき、なんだこれはまるで、そっくり
  ではないか、ただ、「時と場所」が違うにすぎない、と思ったものである。/それなら、
  過去の事件を丹念に洗って、三宅の噴火の特徴をあらかじめ調べ、リストアップすることで、
  有効適切な対策が立つのではないだろうか。じつはほぼその通りなのである。/書かれた
  記録はなくても、先史あるいはもっと古い地質上の記録もあり、その解読はできよう。
  ただし自然をみる目も、本来、自由でなくてはならない。過去には、現在みられるのと
  違って、もっとスケールの大きな噴火もあっただろう。山頂部のカルデラ陥没、島北部の
  溶岩扇状地ができたときのことを考えると、あまり現在に拘泥し、厳密すぎれば、
  かえってとんでもない誤診を招くこともあろう。

リツヤ湾での史上最大の津波の章では、大変スリリングな目撃談だけでなく、その翌朝から
機上観察を始めて「ノートをとり、地図に書き込み、写真と映画を撮」(本書108頁)り、
更に現地を歩き回っての調査も行なったドン・ミラーの「敏捷さと機動性」も興味深かった。
本書120~121頁には、

  ここでむしろ問題なのは、研究者の迅速な行動と調査を可能にさせるアメリカの社会が
  背後にあるということだ。少しでもよい仕事をしなければ生き抜けないという、きびしい
  背景もあろう。およそ研究能力とは関係ない地位と、年功序列型の日本の大学や研究所の
  体質の中からは、有能な創造的研究の活力は生まれてくるはずもない。/日本の中で災害
  が起ったとき、ただちに現地入りすることがどれだけできるだろうか。

だが、ドン・ミラーは「迅速な行動と調査」だけではない。リツヤ湾の巨大波発生原因を解明し、
それを確信するようになったのは、目撃者の1人である「ウルリッヒの聞いた衝撃音もあろうが、
しかし先輩学者の啓発的助言や、世界各地の類例の文献収集とその比較研究という視野の広さが
あずかっていた。」(本書116頁)。

本書121~122頁で著者も述べている。

  調査であればかならずフィールドに出なければならない、というわけでもない。類例を求め、
  解決のヒントや研究方法を学び、また事件の位置づけをする綜合的作業も大切である。
  それゆえ、文献の収集、いわゆる情報集めは、たとえ風土性、地域性の強い災害科学
  であっても、けっしておろそかにはできない。否、むしろそれだからこそ、もっと熱心な
  情報集めが望まれる。しかし現状はどうなのか。/ドン・ミラーは収集した固体物質の
  崩落ないし地すべりにともなう巨大波の実例を述べているが、そのトップには九州島原の
  眉山の崩壊で生じた津波を掲げている。引用された報告が、二つとも古い(一九〇七、
  一九二四年)ことはともかくとして、むしろわたしたちはかれから、日本の特殊災害の例を
  改めて教えられ、再評価しているのではないだろうか。津波の先輩国日本が、あわてて
  目をこすっているような気がする。/それにつけても思うことは、日本の中で、文献渉猟を
  軽視する風潮がなきにしもあらず、また引用文献のナショナリズムの傾向さえ目につくこと
  である。これはなにも日本にかぎったことではないのだが、あるグループや仲間の文献しか
  引用しないというのであれば、これは学問ではなく、宗教であろう。文部省助成の研究や
  成果の一部研究者による寡占化も上げられる。

全く同じ状況が他の学問分野でもあるんだけどね(+_+) 関連する本書303頁もメモ(^^)

  災害が去ると一~二年の間は、専門の論文のラッシュである。とうてい忍耐強く読み通せる
  ほど容易ではないのである。一件落着したあとの残務整理―災害という観点からの総括的
  展望が必要になってくる。

さて、大災害の人災的側面、その予知における歴史軽視は、遠い国の出来事ではない(+_+)
本書の「桜島大正噴火」の章を読み、気象庁の「測候所の無能ぶり」(本書161頁)を知ると、
件の愚書の〈能天気野郎〉ぶりは何なんだ(-"-) この黒歴史には一言も触れてなかった(-"-)

「一月十二日の大正噴火は、はたして突如、予告なくして幕が切って落されたのであろうか。
手元の資料を注意深く検討してみると、けっしてそうではない。」(本書158頁)として、
誰がみても異常としか考えられない状況=噴火の前兆を慎重に紹介した上で、本書159~160頁は

  異変に接した島民の反応はどうであったろうか。十日夜から村民たちは動揺していた。
  あけて十一日、南岸にあった有部落では村長らが測候所に夜来の実況を電話で報告し、
  桜島の異変について問い合わせた。その回答は「桜島には異変なし」であった。村長らは
  この言に従って、島民の慰撫につとめたが、動揺した多数の島民は、これを信ずる余裕は
  なかった。村民評定の結果、非難の手はずを決め、大半はすでに噴火前日の十一日中に
  大隅半島に渡ったのである。/翌十二日、事態は切迫していた。地震は刻々とはげしくなり、
  横山方面の山体には異変が認められた。村長はさらに測候所にその判定を仰いだ。回答は
  いぜん同じであった。・・・/西桜島でも村民の動揺があった。しかし、こちら側でも
  測候所の判断にもとづく村長の言を信じて、十一日中の避難者はごく少なかった。
  それだけに十二日の混乱はいっそうひどかった。・・・

これじゃ、噴火後に各村長は立つ瀬がないよね(+_+) 続けて、本書160~161頁は、

  ここで、当然問題になることは、測候所の判断であった。各村長らの報告内容は、
  いまとなっては不明だが、はっきりと指摘できることは、十日夜以来地鳴りが起り、
  地震はその後しだいに度数をましつつあったことである。地温の上昇や、村民の間に
  語り伝えられてきた口伝のことも、およそ噴火の前兆とみられる異変は、少なくとも
  村長らの報告によって、十一日中には測候所側では了解ずみであったはずである。
  したがって、もし測候所がこれらの口頭報告を的確に把握し、状況判断していたら、
  少なくとも「・・・・・・異変なし」といったことは断言できなかったのではなかろうか。
  /これは明らかに測候所側のミスであったと認めざるをえない。だから、十二日正午の、
  爆発がスタートしたあとの公式発表は明らかに時機を逸したものであった。このときに
  なって、十一日以後の地震を火山性のものと認め、噴火は目下不明だが数日間はつづく
  であろうと述べている。
  
本書161~163頁では、当時の測候所とその弁護論を厳しく批判する。

  当時、学問として火山学・地震学のレベルが低かったことは認めなければならない。しかし、
  貧弱な地震計といっても鹿児島市ですらおびただしい地震を記録しているのだし、目と鼻の
  先の現地から・・・刻々電話報告がなされた。歴史時代の大噴火の経緯から住民が大噴火を
  憂慮したことに対して、科学的にはなんの根拠もないことであるとして「爆発説」を却下した
  測候所に住民の非難が集中したことは無理もない。この非難は不当で、不見識であったとも
  思われないのである。/はたして故事に学ぶことは「学問的とはいえない」のであろうか。
  わたしはそのような態度の中に、一部技術者の思いあがった姿をみいださずにはいられない。
  貧弱な施設の測候所に、火山の予知をしろという義務を負わせたことがそもそも誤りのもと
  であった、という議論もおかしい。いったいなんのために地震計を設置したのだろうか。
  測候所擁護論者は、桜島の火山性の地震は測候所では感じていなかったと述べているが、
  これはまったくの嘘である。というのは、十二日朝十時ごろ東京の大森房吉(地震学者)は
  十一日午前三時から十二日朝六時まで三三七回の地震があったという電報を鹿児島から受信
  しているからである。/当時、中央気象台の藤原咲平も測候所を弁護して、大爆発の予知が
  できなかったのは、地震学・火山学の幼稚にあった、と述べている。しかし、少なくとも
  この意見は、今回の桜島に関しては正しくない。噴火までに地震計は四一八回の地震を記録
  し、初発以来、初期微動は十一日にかぎっても三秒から一秒と明らかに短くなっている。
  村長の報告と合わせて検討すれば、桜島の下でどういうことが進行中なのかぐらいはわかる
  はずである。/大噴火が過去にいかなる経緯で起ったかについて、測候所はなんらの
  予備知識をももっていなかったのであろう。大正噴火のパターンは、まさに安永のそれと
  そっくりそのままである。古記録を調べれば明白なのである。それに前年の大正二年六月の
  伊集院地方を襲った二回の烈震(各M六・四、日置地震)も、また同年十一月から開始した
  霧島の噴火も、一月八日、桜島噴火のわずか四日前に第三回目の爆発が起っている。それに
  大森房吉が、大正二年の霧島噴火に先立つ宮崎県加久藤地方の群発地震の頻発に関連
  して、鹿児島県知事に対してすでに注意を喚起していたことも忘れるわけにゆかない。
  南九州には、あきらかに要注意のサインがでていたのである。
  
「大正噴火始末記」と題し、問題の一つに「古記録の再検討」を挙げる(本書168~169頁)。

  口伝の類には誇張と不正確はつきものだが、永年の風雪に耐えてきた先人の知識を、科学的
  に吟味し、将来に伝えて役立たせることは、わたしたちの一つの義務だと考えられる。この
  意味で、古記録の本格的な考証的検索が望まれる。安永・大正噴火にしろ、前駆現象から、
  噴火鎮静後の地盤沈下にいたる一連の事象には共通のパターンがみられるのである。近代的
  手法による噴火予知の問題点は、観測の精度をあげるだけで解決できるものでなく、どこで
  どのような現象をどのようにとらえたらよいかにかかっている。それらを適切に行う上で、
  古記録の吟味は大きな意味をもっているように思う。/・・・大正噴火における測候所の
  判断ミスは、明らかに桜島の挙動についての過去の資料の認識不足に原因があったと思う。

小説「迷走台風」で気象界の裏表に通じてることを窺わせた新田次郎について前に書いた(^^)

  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-10-02

そこで、参照程度の予定が、あまりの面白さにブログそっち退けで読み耽ってしまったのが、
新田次郎『小説に書けなかった自伝』(新潮文庫,2012)。同書の「三つの実験小説」の章に
「これは火山をテーマとしたもので、桜島火山をめぐる京都大学の研究所、気象庁の観測所、
そして地元村民の三者の立場を書き分け、火山の恐怖を強調した百枚のものだった。」とし、
「・・・読者の間に好評だった。」と著者自身によって紹介された作品がある(同書172頁)。
それは「桜島」という小説だ(同『桜島』[中公文庫,1975]所収)。その「あとがき」で、
「・・・私にとっては或る意味で実験的な小説であった。」と述べているように(同書229頁)、
「・・・現地で取材をし、現地で書く・・・」という「ドキュメンタリー小説」(同書228頁)
と著者は同作品を規定する。ストーリー自体は大正三年大噴火の40年後からスタートするが、
大正三年大噴火を総括した文書のエッセンスの幾つかも作中において引用・紹介され、特に、
地震学・火山学が幼稚なせいと責任転嫁した点を、本書が批判(本書162~163頁)していた
藤原咲平による測候所弁護論が、同書35~36頁に引用・紹介されているのは有難かった(^^)
ただ、大噴火当時の鹿児島測候所長の未発表論文(同書60~61頁)は実在するのかしら^_^;
また気になるのはキーパーソンである鹿児島地方気象台の火山係長の次の台詞(同書49頁)。

  ・・・大学の研究所と違って吾々は、火山の情報は公衆に対して具体的にしかもすみやかに
  周知させるように務めなければならないという義務があるのです。地震や噴火の予知は
  しなくともよいということが気象業務法ではっきり規定されていますが、実際には情報
  という形式で、見解を述べねばならないのです。・・・五十年前も、今も、噴火の予測が
  できないということに於ては同じです。だが、吾々は事実上それを要求され、発表を
  求められ、・・・なにかを言わねばならないのです。・・・大正三年のあの噴火のときにも、
  もっとも正しいことをした鹿児島測候所長が・・・

また作中の新聞記者の口を借りて([ ]内は引用者)、

  つまり、気象庁は、大正三年の桜島噴火のときと同じように、[噴火するかどうかが]
  分からないときには、ノウ[=噴火しない]と言えという方針をいささかも変更して
  いないということでしょうか

と述べているけど(同書58頁)、要は、「イエス」と発表したらパニックになる、と当時の
測候所を弁護した藤原咲平の論理(「・・・心浮動して風声鶴唳的損害発生するは火を見る
より明かなり・・・」[同書36頁])が、その根底にあるんだろうね(+_+)

でも、「火山は生きた人間のように、性格がみな違うんですよ・・・」(同書46頁)という
主人公の心中は、本書が再三力説していた点に通じるし、同書70頁に出てくる、

  測候所が噴火を予知しなかったのがいけないというのではないのです。測候所には、
  なんとも判断が下せないから、島民は各自の判断で行動しろとひとこと言ってくれたら、
  あんな目にはあわないで済んだ筈です。

という村長の台詞が正解だったと小生は思うけどな(..)

なお、小生の読後感は他の「読者」とは異なるんだよね(^_^;) あくまで素人の感想だけど、
小説としての仕掛けが平凡陳腐だったし、物語の展開・構成にも違和感があり(「解説」で
奥野健男が指摘してた「・・・この小説の瑕瑾・・・」[同書233頁]もコレに含まれていると
愚考するね)、何より作品クライマックスにおける主人公の言動に、お口あんぐり(@_@;)

新田次郎『富士山頂』(文藝春秋,1967)は面白く一気に読み終えた(^^) ただ、この作品も
やはり時間の経過や場面の転換が小生には分かりにくく、読み進んで初めて気付く始末^_^;

『小説に書けなかった自伝』もメチャ面白かった(^^) が、『新田次郎全集』の月報連載時の
「私の小説履歴」という原題の方が、まだ内容に即していると思うな(^_^;) いや、ソレとて
〈新田が読んできた小説〉と誤解されそうだが、新田が書いてきた小説を自伝風に綴ってて、
新田のどの作品を読むべきか、著者自身によるガイドブックとして小生的には役に立つ(^^)v

大震災でゴミ屋敷化した実家の自分の部屋を片付けてたら、元々は父の蔵書だったと思われる
金子史朗『ノアの大洪水~伝説の謎を解く』(講談社現代新書,1975)を発見し、楽しみ(^^)
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杉本苑子『引越し大名の笑い』

初出誌が「歴史読本」で、
歴史小説なのか史伝なのかよく分らぬ作品を集めたものなので気楽に読んだのが
杉本苑子『引越し大名の笑い』(講談社文庫,1991)。

作品名や最初の登場人物の名前から、
持てる知識を総動員してストーリーの展開や結末を予想するのが、
小生にとっての歴史小説の醍醐味だけど、勿論、歴史上の人物の知らなかった史実や逸話、
あるいは、その人物そのものを知らない場合でも読んでて愉しい(^^)
本書収録の各作品も面白く読めた(^^)

どんな内容か思い出せるよう、ネタバレにならない範囲で収録作品の主な登場人物をメモ^_^;

逆臣の座・・・上杉禅秀 足利満隆 岩松満純 足利持氏 足利義嗣
武蔵野の虹・・・速水万里[万里集九] 太田道灌 太田資康 扇谷上杉定正
詐術・・・森三左衛門吉成[可成] 織田信長 戸部新左衛門豊政
悲歌 上月城・・・山中鹿之助幸盛 立原源太兵衛久綱 尼子勝久
野望消えず・・・伊達政宗
働き蜂・・・蜂須賀彦右衛門正勝 豊臣秀吉
医者どの従軍記・・・板坂卜斎[2代 宗高] 徳川家康
誰がために舞う・・・天海 崇伝 藤堂高虎
引越し大名の笑い・・・松平直矩 松平直政
南竜公ご謀叛・・・高井伊織 徳川頼宣

表題作は大変魅力的な主人公に描かれてて良かった(^^)
ただ、小説だか史伝だか不明なので、論うわけではないけど、
海音寺潮五郎『新装版 列藩騒動録(上)』(講談社文庫,2007)
福田千鶴『御家騒動~大名家を揺るがした権力闘争』(中公新書,2005)
の両書に照らし合わせると、ちょっと変なところがあったね^_^;
百瀬明治『御家騒動~江戸の権力抗争』(講談社現代新書,1993)には出て来ない(..)

1976年1月の「南竜公ご謀叛」以外は、どれも1960年代に発表された作品なので、
気になる箇所は勿論あったけど、敢えて非常に些細な点だけ1つ挙げると、
本書262頁に、

  茶頭の那波道円が切り炉の前に坐って、・・・

那波活所は儒学者で頼宣に儒臣として仕えたはずなのはさておき、
この「頭」という字に「がしら」という振り仮名が付けられているが、
桑田忠親『茶道の歴史』(講談社学術文庫,1979)42頁によると、

  ・・・昔はお茶のことをつかさどる茶人の頭を茶頭といった。

として、「茶頭」には「さどう」と振り仮名が付けられている^_^;
そして、桑田は、この「茶頭という歴史的な言葉と混同」しないように、
「茶道」は「ちゃどう」と「よんだほうが、はっきりして、いいんじゃなかろうか
と思っている次第です。」と続けている(^^)

桑田忠親『武将と茶道』(講談社文庫,1985)238頁の「文庫本刊行に際してのあとがき」に、

  元来、国文学科出身の私は、若い頃、小説家を志したこともあるが、・・・/その点、
  『武将と茶道』は、私の唯一の歴史小説作品集といってよいかもしれない。このなかで、
  亀井勝一郎氏や川端康成氏などに認められたものも、二、三篇はある。

と記しているが、同書のどの作品のことか気になる^_^;

[追記160218]

南條範夫『大名廃絶録』(文春文庫,新装版2007)にも名前が出てたのを忘れてた(+_+)

[追記160827]

奈良本辰也ほか『日本史こぼれ話』(角川文庫,1981)192~193頁に「初婚で処女」という話^_^;

  東洋史学者の那波利貞は、京都大学を定年退職してから、重大なことに気がついた。
  早く夫人を失った彼には継嗣がなかったのである。那波家は代々、徳島藩の儒者だった
  家柄で、先祖には那波活所(一五九五―一六四八)というような大学者も出ていた。

んで、「花嫁探し」を始め(「定年退職」後!)、「花嫁の条件」は表題の通りだったとか(@_@;)
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小林信彦『映画の話が多くなって』

映画を観なくなり2012年のクロニクルの用はなさないけれど、
今回も教えられることの多かった
小林信彦『映画の話が多くなって~本音を申せば⑨』(文春文庫,2016)を読了。

週刊文春連載の2012年分だが、連載時に欠かさず読んでたのに内容を憶えてたのは数篇(+_+)
読んでるとその映画を観たくなるような紹介の巧さだけど、趣味が違うからなぁ^_^;
好みもニコール・キッドマン以外は合わないし、てゆーか、あらゆる趣味が違うんだけど、
だからこそ教わることばかりで、本書にも付箋を大量に貼りまくった(^^)
今冬もシモヤケが酷く家でも手袋してたから貼りにくかったけど(+_+)
肯ける評言も多かった(^^) 例えば、本書52頁、

  このごろは〈大女優〉や〈巨匠〉が多すぎる。
  亡くなれば、みんな〈大女優〉になってしまう。

二階級特進かしら^_^; 言葉のインフレ(+_+)

本書71頁

  山崎さんの小説にはこういうケースが多いのだが、
  いま、なぜ、こうした内容をとり上げたのだろうと思っていると、
  小説が終るときには、現実が小説そっくりになってくる。

本書218頁

  どうということのない日常が、いつの間にか、変化する。
  なぎら健壱はそこをさりげなくとらえている。

山崎豊子も読み直したくなるし、なぎら健壱を読んでみたくなる(^^)
本書で紹介されてた本で、読んでそうなのに記憶になかったから、
当時の手帳を調べたら、2013年6月に読了してたので一応メモ^_^;

◎孫崎享[うける]『戦後史の正体~1945-2012』(創元社,2012)

できれば、もっと本を紹介してほしかったな(..)

本書139頁

  一人の人物への感想は、その人物を初めてみた年齢によっても左右されると思う。

本書220頁

  テレビで二人だけで喋るのは真実を写し出す。

・・・などなど、さまざまな情報の他にも、興味深い指摘も多かったm(__)m

本屋で『日本人は笑わない』をパラパラ眺めてたら面白そうだったので速攻購入し、
帰宅して本棚に納めようとしたら既にあった上に付箋が大量に貼られてたことがあった(;_;)
今回wikiを見てても、何を持ってるのか自信が無かったので、蔵書を調べてメモ(+_+)

『現代〈死語〉ノート』(岩波新書,1997)
『現代〈死語〉ノートⅡ』(岩波新書,2000)

『笑いごとじゃない~ユーモア傑作選』(文春文庫,1995年)
『回想の江戸川乱歩』(文春文庫,1997)
『本は寝ころんで』(文春文庫,1997)→1991.8.29~1994.1.27
『〈超〉読書法』(文春文庫,1999)→1994.3.3~1996.3.21&1993.8~1994.9
『読書中毒~ブックレシピ61』(文春文庫,2000)→1996.4.25~1997.11.20&『小説探険』
『人生は五十一から』(文春文庫,2002)→1998年
『最良の日、最悪の日~人生は五十一から②』(文春文庫,2003)→1999年
『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』(文春文庫,2003)
『出会いがしらのハッピー・デイズ~人生は五十一から③』(文春文庫,2004)→2000年
『物情騒然。~人生は五十一から④』(文春文庫,2005)→2001年
『テレビの黄金時代』(文春文庫,2005)
『にっちもさっちも~人生は五十一から⑤』(文春文庫,2006)→2002年
『花と爆弾~人生は五十一から⑥』(文春文庫,2007)→2003年
『本音を申せば』(文春文庫,2008)→2004年
『〈後期高齢者〉の生活と意見』(文春文庫,2008)
『昭和のまぼろし~本音を申せば②』(文春文庫,2009)→2005年
『昭和が遠くなって~本音を申せば③』(文春文庫,2010)→2006年
『映画が目にしみる~増補完全版』(文春文庫,2010)
『映画×東京とっておき雑学ノート~本音を申せば④』(文春文庫,2011)→2007年
『女優はB型~本音を申せば⑤』(文春文庫,2012)→2008年
『森繁さんの長い影~本音を申せば⑥』(文春文庫,2013)→2009年
『伸びる女優、消える女優~本音を申せば⑦』(文春文庫,2014)→2010年
『人生、何でもあるものさ~本音を申せば⑧』(文春文庫,2015)→2011年
『映画の話が多くなって~本音を申せば⑨』(文春文庫,2016)→2012年

『日本の喜劇人』(新潮文庫,1982)
『悪魔の下回り』(新潮文庫,1984)
『極東セレナーデ』上・下(新潮文庫,1989)
『夢の砦』上・下(新潮文庫,1990)
『時代観察者の冒険~1977-1987全エッセイ』(新潮文庫,1990)
『背中あわせのハート・ブレイク』(新潮文庫,1991)
『小説世界のロビンソン』(新潮文庫,1992)
『ぼくたちの好きな戦争』(新潮文庫,1993)
『ハートブレイク・キッズ』(新潮文庫,1994)
『イエスタデイ・ワンス・モア』(新潮文庫,1994)
『イエスタデイ・ワンス・モア~Part2 ミート・ザ・ビートルズ』(新潮文庫,1994)
『世界でいちばん熱い島』(新潮文庫,1995)
『イーストサイド・ワルツ』(新潮文庫,1995)
『ドリーム・ハウス』(新潮文庫,1996)
『怪物がめざめる夜』(新潮文庫,1997)
『日本人は笑わない』(新潮文庫,1997)
『ムーン・リヴァーの向こう側』(新潮文庫,1998)
『和菓子屋の息子~ある自伝的試み』(新潮文庫,1999)
『コラムの冒険~エンタテインメント時評 1992-95』(新潮文庫,2000)
『結婚恐怖』(新潮文庫,2001)
『コラムは誘う~エンタテインメント時評 1995-98』(新潮文庫,2003)
『おかしな男 渥美清』(新潮文庫,2003)

『コラムは踊る~エンタテイメント評判記 1977~81』(ちくま文庫,1989)
『1960年代日記』(ちくま文庫,1990)

ざっと全ての手帳を見た限り、既読なのに持ってなかったのは、

『天才伝説 横山やすし』(文藝春秋,1998)

小説を再読したくなった(^^)

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杉本苑子『海の翡翠』

歴史上の人物・事件を扱った小説で結末が分かっていても、
予想を超えたストーリー展開に引き込まれたのが、
杉本苑子『海の翡翠』(旺文社文庫,1986)。

久しぶりにブックオフに行ったら、珍しく旺文社文庫があったので、つい購入^_^;

内容を思い出せるよう、収録作品&主要登場人物をメモ(実在か創作か分らない人物は除く)

海の翡翠・・・高岳親王、平城天皇(安殿太子)、嵯峨天皇(神野王子)、藤原薬子、桓武天皇
みちのく戦記・・・安倍貞任、源義家、安倍頼時、藤原光貞、源頼義、藤原経清
朝焼け・・・俊寛
罠・・・源範頼
船と将軍・・・陳和卿、源実朝、大江広元、結城朝光、北条政子、北条義時

「朝焼け」と「船と将軍」は他にも有名な人物が意外な登場・活躍をしてて、
そこが両作品のメチャ面白いところなんだけど、ネタバレになるから書けない^_^;
表題作も爽やかで余情ある一篇だけど、両作品が何より面白すぎ(^^)
本書巻末「解説」における神谷次郎の言葉を借りれば、
どの作品も「その結末は歴史の示すところ」(本書251頁)ゆえ、
小説のゴールは読み始めて登場人物を見た瞬間に分かっちゃうわけだけど、
両作品はそこに至るまでのストーリー展開が予想を裏切り想像を超えるもので、
その奇想天外さやサスペンス仕立てに引き込まれ、一気に読了(^^)
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小林大輔編『新古今和歌集』

評判が良いのは分るが、初心な読者をミスリードしかねず、
ビギナー向け入門書としては罪深いかも(+_+)
小林大輔編『ビギナーズ・クラシックス 新古今和歌集』(角川ソフィア文庫,2007)読了。

百目鬼恭三郎『新古今和歌集一夕話』(新潮社,1982)を読んだことは年末に書いたけど、
もっと新しい『新古今集』入門書を探してて、ネット上の世評に高い本書を読むことに(^^)

  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23

先ずは、食前酒として、
久保田淳訳注『新古今和歌集』上(角川ソフィア文庫,2007)5頁「凡例」六で名言発見(^^)v

  本書は『新古今和歌集全評釈』、新潮日本古典集成『新古今和歌集』に次ぐ、
  著者にとって第三回目の新古今和歌集の注釈であるが、今回この作業に従って、
  改めて注釈にはおわりがないことを痛感している。

映画「クラッシャージョウ」のエンディング(曲)を連想^_^;
滋味含蓄あるね(^.^) しかも、久保田淳だから、重みがあるよ(^^)
どの学問分野もそうだろうけど、『新古今集』も奥が深い世界なのね(@_@)
考えてみりゃ、本歌取りや本説取りが多いので、『新古今集』を理解するには、
『新古今集』以外・以前の和歌、物語、漢詩文等を理解せねばならぬ逆説があるわな(@_@;)
そのシンドさを想像すると、『新古今集』の研究者・専門家に対しマジで敬服m(__)m
久保田淳『新潮日本古典集成 新古今和歌集』上(新潮社,1979)380頁に曰く、

  一首の歌が二首の本歌を有する場合、または本歌と本説・本文を併せ持つ場合は、
  めずらしくない。古人は本歌がそれとわかるようにあらわに取れと教えているが、
  現代のわれわれから見ると必ずしも直ちにそれとわからない場合もある。
  本歌や本文がわからなくても全く解釈できないということはまれであろうが、
  それらを知ることによって解釈が深まることは事実である。

適切な本歌・本説・本文を探り当てられるかどうかが、注釈者の腕の見せ所なのかも(^^)

島津忠夫『新版 百人一首』角川ソフィア文庫の改説・変遷ぶりは前に書いたけど、

  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-11-02
  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-11-04

いくら「注釈にはおわりがない」とはいえ、久保田も結構凄かった^_^;
例えば、本書59頁が採り上げる藤原俊成の次の歌をチェックしたら、

  七夕の門渡る舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ

久保田・前掲書・上121頁の頭注は次のように評してたけど、

  ・・・毎年七夕のたびに願い事を書きつけてきたという述懐。

久保田・前掲文庫・上165頁の通釈になると、「玉づさ」を単なる「文」から「恋文」へと
改説したこともあって、同歌の大意が全く異なる別物へと一変してた^_^;

実は前者の頭注を読んだ時、つい笑っちゃったんだよね^_^;
百目鬼・前掲書32~33頁が、俊成を次のように紹介してたのを思い出したから。

  ・・・おそろしく現役時代の長かったひとで、元久元年(一二〇四年)、九十一歳でなお
  『祇園社百首』を詠み、その年内に没しているという(久保田淳『新古今歌人の研究』)
  から、死ぬまで現役であったわけである。・・・/俊成がこれほど長生きしたのは、
  むろん体質であったろう。石田吉貞『藤原定家の研究』(文雅堂書店)によると、彼の
  家系は長寿者が多く、・・・

同歌を詠んだのは何歳かは調べてないけど、そんだけ長生きすりゃあ、七夕を何回も迎えて、
そういう「述懐」にもなるわな^_^; この俊成の長寿に関連して言うと、彼の有名な秀歌、

  またや見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの

本書35頁は次のように評している。
  
  俊成がこの歌を詠んだのは、八二歳の時である。彼の年齢からすると、
  初句の「またや見む」には、自分の余命を考えての詠嘆が込められている、
  と考えることもできそうである。

こういう解釈があるのは知ってたけど、俊成の享年を考えると、なんか違和感^_^;
なお、俊成の前記七夕の歌のことを本書60頁は、

  七夕祭りの風習を、こんなロマンチックに詠んだ歌は他に例がない。

と断定してるけど、異論ある人いそう(@_@) 本書の著者は歯切れの良すぎる嫌いが^_^;

さて、メインディッシュだが、本書「はじめに」は次のように記している(本書3頁)。

  本書は、新古今和歌集約二千首のうち、八十首を取り上げたものです。
  まず和歌の本文を掲げ、現代語訳、和歌の解説という順番になっています。

実際には各歌の解説の中で言及してる『新古今集』入集歌もあるので80首よりは少し多い。
巻末に『新古今集』についての「解説」と付録の「和歌初句索引」、また随所に啓蒙的な
「コラム」18篇も収録されてる。驚いたのは、『新古今集』は全20巻から成るわけだが、
各巻から最低1首は採り上げてる本書の構成(^^) 『新古今集』の全容を初学者へ伝えん
とする著者の意欲を感じて頭が下がるm(__)m ただ、巻第一から巻第六までの四季の歌から
40首、巻第十一から巻第十五までの恋歌から20首撰んでて、両者で4分の3を占めてる^_^;

80首の内訳は、定家(10)、西行(8)、俊成(6)、後鳥羽院(5)、式子内親王(5)、
良経(5)、慈円(5)、家隆(5)、宮内卿(4)、俊成卿女(4)、寂蓮(3)、雅経(2)、
秀能、持統、忠良、顕昭、宜秋門院丹後、顕輔、家持、赤人、家長、兼輔、伊勢、好忠、
儀同三司母、小侍従、紫式部、道真、清輔、鴨長明の30人(括弧内がその歌の数)。

底本が違うかもしらんが、石田吉貞『新古今和歌集全註解』(有精堂出版,1960)864頁に
よると、『新古今集』に採られた歌人は実に397人もいる(よみ人しらず等は除いてだが)。
ただ、同書864頁によると(同書の引用は漢字を新字体に改めているm(__)m)、

  ・・・この集がいかに現存歌人[撰集の命が下った建仁元年11月3日に生存してた者]の作を
  重視したかということが明らかに知られるが、しかしこれだけでは、実は真相が明らかに
  されたとは言い難い。何となれば、現存者の中にも一人一首だけの者が二十六人もあって、
  それらは半ば恩恵的に入れられたと言い得るからである。

となると、一発屋はともかくコネ勅撰歌人を採り上げてたら、そのセンスが疑われるな^_^;
本書が撰んだ30人はどうなのかな(..) 石田・前掲書から入歌数の多い順に作者を挙げると、

西行(94)、慈円(91)、良経(79)、俊成(72)、式子内親王(49)、定家(46)、
家隆(43)、寂蓮(35)、後鳥羽院(33)、貫之(32)、俊成卿女(29)、
和泉式部(25)、人麻呂(23)、雅経(22)、経信(19)、有家(19)、秀能(17)、
通具(17)、道真(16)、好忠(16)、実定(16)、讃岐(16)、伊勢(15)、
宮内卿(15)、匡房(14)、通光(14)、紫式部(14)、清輔(12)、俊恵(12)、
業平(12)、実方(12)、俊頼(11)、家持(11)、徽子女王(11)、相模(11)、
兼実(11)、重之(11)、行尊(11)、殷富門院大輔(10)、赤染衛門(10)、
公経(10)、伊尹(10)、鴨長明(10)、村上天皇(10)、能因(10)、躬恒(10)、
能宣(10)、宜秋門院丹後(9)・・・へぇ~と思うところがあり、つい興に乗って
リストアップしちゃったけど、限がないので、これぐらいで止めておこう^_^;

本書に撰ばれた作者の3分の2は重なるから、『新古今集』の紹介として適切かも(^^)
でも、入集歌多数にもかかわらず本書で採り上げられてない代表的な歌人がいる一方、
入集数が少ない作者を本書が採り上げたのは、どうなん(..) 勿論、『万葉集』以外の
重出歌は認めない『新古今集』の方針(例外あり)のため入集数が少ない作者もいるし、
肝心なのは本書が採り上げた歌が秀歌かどうかだけど^_^; でもさ、例えば、藤原有家、

  朝日かげにほへる山のさくら花つれなく消えぬ雪かとぞ見る

  夢かよふ道さへ絶えぬ呉竹の伏見の里の雪のしたをれ

あるいは、源通光、

  むさし野やゆけども秋のはてぞなきいかなる風の末に吹くらむ

などなど有名な秀歌の落選は残念(;_;) 撰ばれてる作者でも、他にもいい歌あるし^_^;
ただ、本書が採り上げて解説した歌が全て『新古今集』を代表する秀歌なのかしら(..)
ここで気になったのは、六条藤家の1人だけど、『新古今集』入歌数が僅か2首の顕昭の
「萩が花ま袖にかけて高円の尾上の宮に領巾振るやたれ」を採り上げ解説した本書62頁。

  学問に優れた顕昭だが、歌を作るのは下手だと評されていた。『新古今和歌集』の撰者
  である藤原定家は、なぜこの歌を選んだのかという非難に対し、「顕昭の歌の中では、
  これよりすぐれたものがないからだ。」と答えたという。しかしこの歌には、
  定家の作などともまた違った面白さがあると思われる。

同逸話は有名で、多くの注釈書が紹介してるけど、当該「非難」をしたのは定家と同じく
「『新古今和歌集』の選者である」藤原家隆であり、しかも、定家の「答え」に同意して、
同歌を批判したことを、本書の著者は何故か伏せてる(..) 『新古今集』歌人の双璧である
定家と家隆よりも著者の鑑賞眼の方がたしかなのかね^_^; 実は、本書が採り上げた80首中
14首もが百人一首にも入っている歌(式子内親王、寂蓮、雅経、持統、忠良、顕輔、家持、
赤人、兼輔、伊勢、好忠、儀同三司母、紫式部、清輔の歌で、しかも、その内なんと10人が
本書で一首しか紹介されてない作者)なんだよね^_^; 『新古今集』のことを知りたくて、
本書を手に取ったのに、また百人一首かよ(-"-) と思ったけど、もしや、著者は秀歌でない
変な歌を採り上げてしまって、そのセンスを疑われることがないよう、置きに行ったのかも、
と邪推しちった^_^; 本書の歌のチョイスに関しては、正直チョイがっかりだったよ(;_;)

でも、著者は高校教諭らしく、また本書がビギナーを対象にしているということもあってか、
その叙述は非常に明解で分かり易く、小生のような初学者の頭にもすっきり入ってくる(^^)
本書の感想をネット上で見た限り大変好評だったのも得心した(^^)

百目鬼・前掲書を読了し、同書に載る『新古今集』入集歌は石田・前掲書で確認し、少しだけ
予備知識があったこともあり、本書を読みながら、百目鬼に比べると浅いなぁ、と感じること
も時にはあれど、同じ歌でもこういう解釈・鑑賞もあるのね、と本書から多くを学べたm(__)m

だが、本書30頁の西行の「吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬ方の花を尋ねん」の解説を
読んで、小生の目がマジ点になったよ(@_@)
  
  初句の「吉野山」は、大和国(現在の奈良県)の歌枕である。
  古来、最も有名な桜の名所であった。・・・また、第五句の「花」は、桜のことである。
  和歌の世界では、「花」は桜の代名詞であった。  

はぁ?! ならさ、こないだ某有名進学校の女子高生が百人一首の参考書を熱心に読む姿を
電車内で見かけたけど、例えばの話、百人一首にも入る紀貫之の『古今集』の有名な歌

  人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

この「花」も桜を指している、と著者は高校で教えるのかな?
まさか著者は『新古今集』の歌やその本歌に出てくる「花」は全て桜と決めつけて、
『新古今集』の歌を解釈・鑑賞してるのかしら(@_@;)

もしそうなら、本書20頁で紹介している藤原清輔の『新古今集』の秀歌

  薄霧の籬の花の朝じめり秋は夕べと誰かいひけむ

この「花」も桜と著者は解するのかね(@_@) 秋に咲く桜かよ( ゚д゚)ポカーン
ちなみに、久保田・前掲文庫171頁は「籬の花」を次のように説明する。

  籬(間を広く開けて結った垣)に咲く花。具体的には朝顔などをイメージしていうか。

あるいは『新古今集』の「春歌」から挙げるなら、凡河内躬恒の次の歌、

  いづれをか花とはわかむ古里の春日の原にまだ消えぬ雪

石田・前掲書30頁は、この「花とは」の註で、

  春日野には梅をよむことが古来多いから、此の花は梅と解すべきである。
  雪と区別がつかぬという点からも梅と解される。 

久保田・前掲書27頁の頭注も「雪中梅(白梅)」、同・前掲文庫47頁の通釈も「白梅の花」。
でも、本書の説明を真に受けた初心な読者は、これらを全て「桜」と誤読しちゃうかも^_^;

〈和歌の世界では、「花」は桜の代名詞であった〉が如何に暴論で不正確か、この点を論じた
先学諸賢の見解を引けば、例えば、和歌森太郎『花と日本人』(角川文庫,1982)168~169頁。

  ・・・「花」といえば、直ちに桜を思うほどになったのは、古来のことでもない。
  本居宣長は『玉勝間』の中で、「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは
  聞えぬ事なり」と説いている。平安中期ごろからのことという理解である。/
  花といえば桜と思うふうは、いわゆる国風文化の発達に伴うことかもしれない。/・・・/
  だから、花についても、中国では詩文に梅が顕著で、日本でも『万葉集』あたりには、
  梅が桜よりもまさってよく詠じられたのに、『古今和歌集』のころから、桜が優位に
  立つようになった、と解されてきた。/だが、梅から桜へと、そうはっきり推移したわけ
  でもないし、『万葉集』にも、/・・・/したがって一概なことはいえない。・・・

和歌森は歴史学・民俗学が専門だけど、本居宣長の指摘を受けて論じてるからね(^^)
まさか本書の著者は本居宣長よりも「和歌の世界」に詳しい碩学なのかな( ゚д゚)ポカーン
でも、本居宣長と同じことを、たしか契沖も書いてたはずだし、
折口信夫の弟子で、王朝の和歌・物語が専門の研究者である、
西村亨『王朝びとの四季』(講談社学術文庫,1979)40頁も、

  たとえば、『古今集』の時代に、ようやく春の花の代表は桜ということに固定しようと
  してきている。万葉びとは外来のハイカラな花として梅を非常に愛しているが、
  『古今集』においては、桜と梅とが春の花の王座を争っている。『古今集』の春上の巻には
  梅の花が十七首あるのに対して桜の花が二十首ある。ほぼ勢力がつり合っているが、
  春下の巻になると、桜の歌が五十首という大群をなしていて、ほぼこの巻の四分の三を
  占めている。春の花と言えば桜ということに固定しようという傾向が見られるわけである。
  しかし、『古今集』では、単に「花」と言った場合に、それが桜の花を指していることも
  あれば、梅の花を指していることもある。/・・・ところが、『古今集』を継承した
  『後撰集』『拾遺集』以下の勅撰集になると、だんだん「花」ということばをもって
  梅の花を指すことが少なくなってくる。そして、圧倒的に「花」が桜の花を
  意味するようになってくる。

湯葉と豆腐が食べたくなる^_^; 最近の本を引くなら、やっぱアレでしょ(^^)
島津忠夫訳注『新版 百人一首』(角川ソフィア文庫,1999→2008新版16版)30頁の脚注1も、

  花といえば桜をさすことは、『古今集』のころから、ようやく固定しはじめる。

安東次男『百人一首』(新潮文庫,1976)の「語釈」が一番誤解を招かない表現かと(^^)
同書55頁で、

  上代では梅花を指して遣うばあいが多いが、古今集のころから主として桜花を意味する
  ようになる。

同書111頁も、

  古今集ごろから「花」は梅よりも桜の花を指すことの方が多くなるが、・・・

溺れる犬を打つことになるけど、本書の「参考文献」にも挙げられている(本書212頁)、
片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』(笠間書院,1999)342頁の「花」の項の冒頭には、

  「国語」の時間に古典を初めて習った頃、「花」といえば「桜」のことだと何となく
  教えられ自分も納得していた。しかし、その後、古典文学を専門に研究するようになると、
  そうではないことがすぐにわかった。教育現場での常識が学問世界の常識と異なることは
  多い。

本書は「国語」の「古典」の授業レヴェルで、著者には「学問世界の常識」が無いのかも^_^;
じゃなきゃ、この著者は読者を見下してるんだろうね(+_+)

この本書30頁の解説には、他にもおかしな点があるんだよね(@_@)
「吉野山」という歌枕について、片桐・前掲書456~457頁は次のように述べている。

  吉野山は、このように平安時代中期までは、いわば雪の名所であり、霞がそれに付随して
  よまれているのであるが、桜の名所としての吉野山のイメージはそれほど強くはなかった。
  「み吉野の吉野の山の桜花白雲とのみ見えまがひつつ」(後撰集・春下・読人不知)
  「吉野山消えせぬ雪と見えつるは峰続き咲く桜なりけり」(拾遺集・春・読人不知)など
  まったくよまれていなかったわけではないが、三代集時代の例を示すことは必ずしも容易
  ではない。その後、『堀河百首』の時代に少し見えたりするが、吉野山と桜の関係が決定的
  なものになるのは、やはり「吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬ方の花をたづねむ」
  (新古今集・春上)を代表とする数々の歌をよんだ西行とその時代だと言わざるを得ない
  のである。

本書30頁で西行「吉野山去年のしをりの・・・」を「古来、最も有名な桜の名所であった」と
解説してたけど、西行の同歌等によって初めて〈最も有名な桜の名所になった〉んじゃん(-"-)

本書92頁の「本意」と題したコラムでも、

  『新古今和歌集』の時代になると、和歌に詠める事物も、その事物をどう扱うか
  ということも、かなり厳しく決められていた。その決まりのことを、「本意」と呼ぶ
  (「ほんい」とも「ほい」とも読まれる)。例えば、富士山には必ず煙が立っている、
  と詠まなければならなかった。それが最も富士山らしいと考えられたからである。

と断言するが、本書103~104頁が採り上げた山部赤人の有名な「田子の浦に・・・」は、
「煙が立っていると詠」んでないね^_^; そもそも片桐・前掲書361~362頁の「富士」の項に、

  ・・・のように、異性を恋い慕う心を噴火する煙火にたとえる表現と、・・・のように
  山頂に常に雪があることをよんたものとの二つの詠法があったが、平安時代に入っても
  この傾向は変わらず、・・・平安時代末期になると、・・・「富士の山おなじ雪げの雲間より
  裾野を分けて夕立ちぞする」(同[=後鳥羽院集])など叙景歌的雰囲気を持った
  幽玄な歌がふえてくるのである。

片桐・前掲書は本書の「参考文献」に挙げられてるが、全く「参考」にしてないみたい(+_+)
同書は刊行に至るまでの角川書店のダメっぷりも「はしがき」で明らかにするのはさておき、
知りたいことに端的に答えず歌で語らせてる嫌いはあるが、「読める辞典」で超面白い(^^)
片桐の『古今和歌集全評釈』『伊勢物語の新研究』を谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』
(文藝春秋,2005)209&547頁は高く評価していて、その209頁に興味深い一文があった(^^)

  鎌倉から南北朝にかけての古注釈書は、ありもしない出典を捏造して、
  学問的な深さがあるかのように、手練手管を弄したのである。

また本書46頁に、

  そして、五月雨も郭公も、和歌の世界では、人に物思いをさせるものとされていた。

更に本書48頁で、

  しとしとと降り続く五月雨は、人を室内に閉じ込めて、何となく憂鬱な気分にさせる。・・・
  /・・・郭公もまた、人に物思いをさせる鳥なのであった。

また一部を全部とするメチャクチャぶり(+_+) ほととぎすが、五月雨と一緒くたにされ、人を
「何となく憂鬱な気分にさせる」のは一面にすぎないのにその全てかのように決めつけられて
可哀想(;_;) 例えば、よく政治状況と絡めて深読みされている、後鳥羽院の『新古今集』の歌

  時鳥雲居のよそに過ぎぬなり晴れぬ思ひの五月雨のころ

著者はほととぎすが雲の彼方を過ぎて行き物思いの種が一つ減ったとでも解するのかね(..)
窪田空穂『新古今和歌集評釋』(東京堂,1950)上巻18頁は次のように解説してた。

  五月雨の頃、晴れぬ思ひをしてゐられると、たまたま時鳥が鳴いて、
  それが慰めになると思われると、忽ち遠く鳴き過ぎてしまった。

御覧の通り、ほととぎすは著者が断定するように人を「憂鬱な気分にさせる」どころか、
むしろ五月雨による「憂鬱な気分」を振り払ってくれる「慰み」となるはずだった(^^)
「五月雨」は「・・・心も晴れず物思いにふける心情とともによまれることが多かった。」
(片桐・前掲書183頁)が、片桐・前掲書は「時鳥」のさまざまな詠まれ方を紹介した上で、
「時鳥はこのように平安時代の人に限りなく愛されたゆえに・・・」とする(同書378頁)。
ほととぎすならやはり西村・前掲書を紹介しないとね(^^) 同書の「解説」で、益田勝実が
同書の「ほととぎす」を論じた一節を引用して、次のように述べてる(同書237~240頁)。

  ・・・行文の周到さ、知りたいことを根こそぎ教えてくれる綿密な書きこみ方に驚いたこと、
  驚いたはよいが、そのあと、/・・・と読みたどってきて、次の一節で本を置いた。
  その先が読めなくなるほど、つぎつぎの思いが襲いかかってきたのだった。西村さんは
  こう書いている。/・・・/蒙がひらかれるとはこういうことだろう。・・・/
  池田彌三郎さんの書かれるものには、ひとつ上の世代だという気もあって、簡単に
  シャッポを脱ぎつけているが、西村亨さんには、離れたところで育った同世代のライバル
  という感じを抱いているから、終日悶々としていた。・・・だめな自分を思い知ったその日は、
  あとのページを読むことができなかった。そんな記憶は忘れるものではない。
  ひそかに畏敬の心を抱くようになった。

専門家ですら「蒙がひらかれる」のだから初学者の小生など言うまでもない^_^; 受験の役に
立つかもと買って読んだのは憶えてたが、今回再読し、これほど面白く為になる本だったとは
(@_@;) 今年のベストかも^_^; 当たり前だが、読書にもレディネスが必要ということだね。
となると、当ブログで批判した愚書駄作もむしろ小生の方に問題が・・・んなわけねーよ^_^;

「ほととぎすは夏の鳥の代表であったばかりではない。一年を通じても最も親しまれ、最も
関心の集められた鳥で、・・・/・・・しきりにその初声が待たれている。」(同書116頁)。
何故か?「・・・五月になったそのついたちの朝からほととぎすが鳴くものだという知識が固定
しているが、・・・それほどほととぎすと五月とが強く結び付いているのである。/もっとも、
本当に五月を待っているのはほととぎすよりも実は人間のほうであるだろう。人間が五月を
待っている気持ちがほととぎすに託されていると見ていい。」(同書117頁)。「・・・王朝びとの
季節感は、根本に農村の生活があって、農村的な年中行事と深く結び付いている。」(106頁)。
それ故、「・・・農村にとってさつきは最も重要な月であり、そのさつきを教えるほととぎすも
自然深い関心が持たれたのである。」(同書118頁)。このような背景があり、ほととぎすは
「限りなく愛され」、その鳴き声を待ち焦がれて、あるいは聞けなくて「人に物思いをさせる」
こともあったりするが、「人を室内に閉じ込めて、何となく憂鬱な気分にさせる」五月雨と同列
に扱うのは糞味噌の類い(-"-) 勿論、同書は「もうひとつ、ほととぎすには冥土の鳥という暗い
印象がある。・・・/・・・ほととぎすは一方に暗く、ゆううつな連想のある鳥であった・・・」
(同書120~121)ことも指摘するが、「もうひとつ」「一方に」とある点を忘れてはならない。
ただ、「民俗学的国文学」と、益田の言う「深く文献学に傾斜している、アカデミーの国文学」
(同書236頁)との違いによるものなのか、注釈書の中には「ほととぎす」と「やまほととぎす」
を全く同じものと捉えてたり、同書のほととぎす観からはズレた解釈が結構なされてるね(..)
先の後鳥羽院の歌についても、

  重苦しい五月雨のころ、政治上の悩みをいだいていた作者に、雲のかなたを鳴き過ぎた
  ほととぎすの声は、悩みをさらにかき立てるものであった。その実感の重みがある。
  
と峯村文人校注・訳『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』(小学館,1995)85頁は解説。
またほととぎすは五月と「強く結び付いている」から五月雨とよく一緒に詠まれているのに、
ほととぎすと五月雨を短絡的に結び付ける傾向も(..) 吃驚したのは、ゴミ部屋から発掘した
『例解古語辞典 第二版[ポケット版]』(三省堂,1985年第三刷)742頁の百人一首の注解で、
後徳大寺左大臣(藤原実定)の「時鳥鳴きつるかたをながむればただ有明けの月ぞ残れる」。

  五月雨の降る一夜、ずっと心待ちにして耳をすませていた、そのホトトギスが、たった今
  たしかに鳴いた。あわててその姿を求めるように今鳴いた方向に目をこらしたが、
  しとしとと降っていた雨は、いつのまにかやみ、・・・そんな情景を頭に浮かべてみよう。

ほととぎすの歌なら機械的に五月雨を読み込んでしまう謎の解釈・鑑賞エッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

ついでだけど、本書180頁でも首を傾げたね^_^;

  元久二年(一二〇五)に、『新古今和歌集』がいったん成立すると、
  後鳥羽院の関心は、急速に和歌から政治へとシフトしていった。

著者自身が巻末の「解説」(本書264~265頁)で次のように記してるのにね(+_+)

  元久二年(一二〇五)二月二十二日、全部の作業が一応完了。三月二十六日には、
  完成を祝う竟宴という宴会が行われた。・・・/竟宴の翌々日から、早くも歌を追加したり
  削除したりする、切継の作業が始められた。院が命令する際限のない切継作業に、定家は
  たまらず愚痴を漏らしている(・・・)。これが承元四年(一二一〇)の九月まで続く。

これも有名な話で、久保田・前掲書・上361頁は、後鳥羽院には『新古今集』に対する「執念に
近いものがあったのではないか」と想像するぐらい、「成立」から5年間も御執心じゃん^_^;
そして、ようやく切継が終わりに近くなると、

  ・・・後鳥羽院の心は次第に和歌から離れて、むしろ遊戯的な連歌に興ずることが多く、
  また近臣に勝負の笠懸(勝敗の結果を競う騎射)をやらせるなど、少年の頃のように
  武芸に関心を示している。

と同書362頁は解説するけど、「次第に」とあることに注目^_^; 「急速に」じゃねーよ(-"-)
しかも、その一方で、久保田・前掲文庫・下422頁には、

  この頃、後鳥羽院の詠歌に対する意欲はやや衰えていたようにも思えるが、
  順徳天皇に刺激されたか、建保四年(一二一六)には人々に百首歌を詠進させている。

とあり(ここも「やや」であって「急速に」ではない)、宸襟は下下には分かりませぬ^_^;

ビギナーが理解しやすいよう歯切れ良く書いたとしても、むしろビギナーが対象だからこそ、
不正確な記述は避けるべきだろ(-"-) 本書全体の記述内容、特に歌の解説(訳・解釈・鑑賞)
まで疑わしくなってくるよ(;_;) そこで、本書が最初(15~16頁)に採り上げた後鳥羽院の
次の秀歌の解釈・訳に引っ掛かっる点があったので、試しにチェックすることにした^_^;

  ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく

手元の石田・前掲書(&時に百目鬼・前掲書)、久保田・前掲書と久保田・前掲文庫を
常に参照しながら、本書を読んでいたが、この歌も石田や久保田とは異なる解釈・訳
(「ほのぼのと」が「夜がほのかに明けていく様子と、霞がうっすらとかかっている
様子の両方の意味で使われている。」として、「夜明け」の場面とする)だったので、
はたして本書のような解釈・訳もあり得るのか、他の注釈書等でも確認してみた^_^;
峯村文人校注・訳『完訳 日本の古典35 新古今和歌集』一(小学館,1989)、同・前掲書、
久保田淳『新古今和歌集全評釈』(講談社,1976)第一巻、窪田・前掲書上巻は、本書の
ような解釈・訳を採っていない。だが、田中裕&赤瀬信吾校注『新日本古典文学大系11
新古今和歌集』(岩波書店,1992)、丸谷才一『後鳥羽院 第二版』(筑摩書房,2004)、
吉野朋美『コレクション日本歌人選028 後鳥羽院』(笠間書院,2012)は、本書と同じ
ような解釈・訳をしていた。この解釈・訳は丸谷が1973年に「著者不明」や「偽書」の
〈古注釈書〉も参考に提唱したのが嚆矢なのかしら(..) それがじわじわと影響か^_^;
ただ、当該解釈を吉野・前掲書45頁は支持しつつも、

  文法的には二、三句にかかる形ではあるけれども、初句に「ほのぼのと」とよみだした
  ことで広がっていく春の雰囲気は、一首全体の情景をほんのりおおっているように
  読めないだろうか。初句にこの句があるからこそ、文法的には無理なのに、結句の
  「霞たなびく」までそのイメージが続いている。ちょっとずるいかもしれないが、
  そう考えてみたい。

とあり、やはり無理筋なことが分ったので、それで小生的には満足し、時間も惜しいので、
他の歌の気になる点など、これ以上は調べないことにした(^^) 所詮、素人だしね^_^;
専門家による本書の書評を読みたいね(^^)「宣伝、太鼓持ち、仲間褒め」でないのを^_^;
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杉本苑子『蝶の谷』

旺文社文庫は古本屋に少なくネットで入手(^^)v
春陽文庫じゃなくて良かった^_^;アレはツチノコみたいなもんだからね(@_@)

喜国雅彦が春陽文庫の「コレクター泣かせ」っぷりをユーモラスに書いてて笑える^_^;

  http://www.kunikikuni.com/kikuni/tantei/z.syunyou.html

これほどじゃないけど、旺文社文庫も結構いい加減だよ^_^; 面白そうな作品あるのに(..)

杉本苑子『蝶の谷』(旺文社文庫,1987)を今回購入したけど、収録作品は次の通り(^^)

  蝶の谷
  乾いたえくぼ
  蛇
  嫦娥
  鳥獣戯画
  礼に来た幽霊
  三つぼくろの男

その巻末に「旺文社文庫新刊・近刊」の案内が載っていて、本書も紹介されている。

  養母と妻の励ましで役者として大成する男を描く表題作ほか、
  「乾いたえくぼ」など六編を収録。

・・・何か変じゃね(@_@) 現に本書カバーの内容紹介文だと、次のようになってる^_^;

  ・・・表題作ほか、・・・など七編を収録した傑作時代小説集。

最初は、単なる誤植・数え間違いかと思ったんだけど、手元にあった
寺尾善雄『中国英雄伝』(旺文社文庫,1986)巻末の「旺文社文庫新刊・近刊」の案内でも、
海音寺潮五郎『蘭陵の夜叉姫』(旺文社文庫,1986)について、

  中国時代小説集。表題作ほか、「美女と黄金」「鉄騎大江を渡る」
  「天公将軍張角」の四編を収録。

と記されてた(+_+) 同書の収録作品は「崑崙の魔術師」も加えた5篇なのにね^_^;
ただ、同書の場合は、そのカバーでも、

  ・・・表題作ほか、・・・など四編を収録した中国時代小説集。

となってて、善意に解しようとすると、こっちの日本語感覚までズレてきちゃう(@_@;)
この類いは他にもあるから、巻末の「旺文社文庫新刊・近刊」の紹介文は当てにならん^_^;

さて、杉本の『江戸を生きる』(講談社文庫,1997)収録の「泣き笑い人生 中村仲蔵」という
随筆を読んで、仲蔵を描いた「蝶の谷」と「仲蔵とその母」の両短篇を読みたくなったこと、
「仲蔵とその母」は収録している文春文庫の『冬の蝉』を借りて読んだことは前に書いた(^^)

  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-09-03

んで、利用可能な図書館に無く、行動範囲内の古本屋・新古書店もチェックしてたが無いので、
今回待望の『蝶の谷』ゲットなわけだが、読むと既視感バリバリで、『冬の蝉』は未所蔵ゆえ
断定はできないけど、どうも「仲蔵とその母」は「蝶の谷」を改題しただけの作品みたい(..)
その事実は『冬の蝉』に記載されてなかったはず(-"-) わざわざ買って損したじゃんか(;_;)

・・・と思いつつ、『冬の蝉』で読んだ「嫦娥」も収録されていたから再読してみたところ、
著者の巧さに気付いて、「嫦娥」って実は名作・傑作なんじゃね!?(←個人の感想です)と
独り興奮しながら今回駄文を綴ってみた次第(^^) ネタバレになるが「追記」部分再録m(__)m

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[追記]
杉本苑子『冬の蝉』(文春文庫,1988→新装版2006)読了(^^)「墓石を打つ女」「菜摘ます児」
「礼に来た幽霊」「冬の蝉」「ゆずり葉の井戸」「嫦娥」「仇討ち心中」「仲蔵とその母」を
収録した短篇集で、英雄豪傑活劇タイプの時代小説ではないけれど、どの作品も良かったし、
本書が取り上げていた史実を基・背景にした数篇はヨリ面白く読めた(^^) 個人的な趣味では、
「嫦娥」が気に入った(^^) 以下、少々ネタバレにはなるが、三弦の名手である原武太夫盛和
(原富五郎、原富)が三味線の音色の異常から津浪の来襲を察知した冒頭の逸話は、森銑三
『偉人暦』上(中公文庫,1996)293~295頁の「七月九日 原武太夫」の項にも出ていたけど、
千瀬(遊喜、安祥院[家重側室])との絡みは杉本の創作なのかな(^_^;) また、森によると
原は「放蕩者」だった由(同294頁)、杉本はキャラ設定を改変して面白い物語を拵えた(^^)
なお、月岡芳年『月百姿』に「嫦娥奔月」と題した作品があり、+αもあるけれど、これも
先行作品のパクリらしい(-_-) パクリ繋がりじゃないが、京扇堂ブログに原武太夫登場(^_^;)

「はなしの名どころ」という調査の行き届いた下記のサイトに辿り着き、三遊亭圓朝「名人競
[くらべ]」に原武太夫が出てくるのを知った(^^) だが、ヤボなことを言うようだが、圓朝は
原の逸話の津浪を有名な大火(1772年の明和の大火、目黒行人坂大火)に変えてしまってて、
これでは原の芸が神の域に達してたことが伝わらない上に人為的に起こせる大火(実際、放火
だった)では全くのナンセンスだし、また明和の大火は原が1736年に三味線を断った後の出来事
なので時代考証的にもありえん(+_+)
http://homepage3.nifty.com/nadokoro/toto/10/36meguro.htm

下記の「三遊亭圓朝のブログ」の「名人くらべ」をテキスト化した労作を拝読させて頂いたが、
「昔明暦の大火事の時目黒の行人坂《ぎょうにんざか》から出た火事を・・・」とあり、もし
作成者の誤植でなけりゃ、歴史上有名な明暦の大火(1657年)と明和の大火(目黒行人坂大火)
を一緒くたにしてて論外(^_^;) また、明暦の大火は原の生年が1697年なのでありえん(+_+)
http://blogs.yahoo.co.jp/encho_blog/33854858.html

百目鬼恭三郎『奇談の時代』(朝日文庫,1981)に当たったら、同書58~59頁に三味線の名人の
原某が津浪を予知した逸話、それが大田南畝『仮名世説』に載っていることが紹介されてた(^^)

日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成 第二期 2』(吉川弘文館,1973)所収の大田南畝『仮名
世説』の該当箇所(同書248頁)を閲覧(^^) 「巧芸」という項目の1つとして、「原氏某」の
逸話として紹介されていたが(内容は百目鬼が紹介した通り)、「津浪」という言葉は無くて
「海嘯」という言葉が使われていた(森・前掲書293頁は「津浪」と「海嘯」の両方を使うも、
後者には「つなみ」と振り仮名)。今読んでいる金子史朗『世界の大災害』(中公文庫,1988)
99頁によると「また、津浪を海嘯[つなみ←振り仮名]と呼ぶのは誤りで、これはラッパ状に
開いた河口における高波のことである。」南畝がこのように厳密に使ってるか不明だけど(^_^;)

*******************************************************************************

さて、杉本苑子の短篇小説「嫦娥」の主人公でもある、

  原富、原富五郎、乃至原武太夫の名は、古い本に散見する。

と森・前掲書293頁は書き出し、津浪を予知した逸話の他にも、逸話を幾つか紹介してる。
杉本の設定と異なり、原武太夫は「放蕩者」で「吉原と堺町を自分の家のようにして遊び
暮した。尾張の宗春侯の取り巻きとなって出かけもした。」云々とのこと(同書294頁)。
だが、その粋なエピソードも記してて、「武太夫はただの放蕩者ではなかった。武芸にも
優れ、歌文も堪能だった。」(同書294頁)としており、武太夫は小説、ドラマ、映画の
主人公になってもおかしくない人物に思えるので、杉本が目の付けたのも当然だろう(^^)
でも、「天が感応」するほどの三弦の神技(その逸話も森・前掲書293~294頁が紹介)を
持ちながら、あっさり絶ってしまった話に焦点を絞るため、性格を変えて設定したのかな。
そこに千瀬(お遊喜、安祥院[家重側室])を結びつけ、唐代の詩人も用いる嫦娥の伝説
を下敷きにしたファンタジーを拵えたわけだ。あくまでド素人の想像ゆえ御容赦をm(__)m

百目鬼・前掲書58~59頁は、この「嫦娥」でも使われた津波予知の逸話を紹介した後、

  『武江年表』を見ると、元禄十六年(西暦一七〇三年)十一月二十二日夜江戸に
  大地震があり、地震後津波があり房総で人馬が死んだとあるから、そのときか、
  あるいは宝永三年(西暦一七〇六年)九月十五日の大地震の話であろうか。

と考察するところが、いかにも百目鬼らしく流石だが、武太夫の生年と合わないし、また
大地震後の津波だったとすると、武太夫が三味線の音色がいつもとは異なること(しかも、
「嫦娥」では、同席した超一流の唄い手である河東節の元祖の河東意教や武太夫の門弟の
高木序遊らにも感じ取れない異常に描かれている)から津波を予知したという、この逸話
の凄さが感じられなくなるよね(+_+) 勿論「嫦娥」は小説だから、津波の原因を設定する
必要は無いけど、嫦娥から月を連想して、津波は満月の影響かも、と非科学的な妄想^_^;

話は逸れるが、年末の朝日新聞「天声人語」が『月の魔力』をフツーに紹介していたけど、
同書はたしかトンデモ本とされてなかったっけか^_^; と学会の本は見付からなかったけど、
アーノルド・リーバー『月の魔力~バイオタイドと人間の感情』(東京書籍,1984)は書庫
で見付かった。訳者が「藤原正彦・藤原美子」であることも、今やネタになってるよね^_^;

「嫦娥」の冒頭の場面、武太夫が品川の観潮楼の二階座敷から、渚につづく料亭の庭を歩く
千瀬とその父親の姿を初めて見た夜は、まさに「仲秋の満月」で(本書122頁)、

  昇りはじめてしばらくのあいだ、月は眩しいほど黄金色に輝いて、そのくせ、
  地上にとどく光の箭は弱かったが、中天近くまで移動した今は、黄いろ味を失って
  白銀を研ぎ出したように、光彩はむしろ鋭さを増していた。

顔立ちは見えないが、千瀬を武太夫は嫦娥に喩える理由。それは、武太夫が三味線を弾き、
意教が唄う「まんまるござれ」に反応し、千瀬が二階を見上げ、顏を確認した武太夫は、

  「どう見ても嫦娥だよ。光の箭を渡って仲秋のひととき、人間界へ舞いおりて来たんだ」

と口にし(本書132頁)、先の情景描写も生かしながら、月世界からの降臨に喩える武太夫の
「歌文も堪能」なところも描く(^^) その後のストーリー展開は略すが、クライマックスは、
丸一年後の同じ「中秋八月十五日」の夜に、思いがけない再会を果たした後、屋敷に帰った
武太夫が愛用の三味線「置く露」も序遊にあげてしまい、庭へおりて、浄瑠璃本、唄の諸本を
一冊残らず持ち出して火をつけ、「今日かぎり三弦とは縁を切る。」と宣言し(本書145頁)、

  月に向かって立ち昇る細い、ひと筋の煙を目で追いながら、武太夫はつぶやいた。/
  「千瀬さんは、やっぱり嫦娥だった。遠くへ行ってしまったよ」

「月に向かって立ち昇る細い、ひと筋の煙」を雲に見立て、嫦娥が月世界へ昇って行く幻想的
なシーンが武太夫を通して読み手の目にも浮かぶはず(^^) 月岡芳年(大蘇芳年)「月百姿」の
「嫦娥奔月」のイメージが少し近いかな(^^) 決して富岡鉄斎「嫦娥奔月図」じゃないわな^_^;

芸術新潮2002年9月号が「よく習い、能く描き、良く老いた 富岡鉄斎に学ぼう」という特集を
組んでて、同誌61頁に「月の女神・嫦娥はいかにして生まれたか」と題した同誌編集部による
解説文が載ってるが、その題の「嫦娥」に「こうが」とルビを付けるのはどうなのかしら(..)
勿論、同解説文にある通り、元々は、

  ・・・姮娥といったが、漢の文帝の名が恒であるため、漢人たちが「嫦娥」と改めた。

わけだけど、今や辞書や百科事典など、どれも「じょうが」で載ってるんだからね^_^;

「嫦娥」を読み終えると、前に読んだ『月百姿』をじっくり眺めたくなってきた(^^)

  http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-04-25-1

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海音寺潮五郎『随筆 日本歴史を散歩する』

次回につづくと前回末尾に書いたが、謝罪は早い方が良いし、
年賀状書きの現実から逃避して一文を草してみた(+_+)

6月5日の齊藤貴子『肖像画で読み解くイギリス史』(PHP新書,2014)の記事で、
PHP新書はハズレを引くことが多いという話のついでに書いた件を先ずは再録する。

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PHPつながりで、書いておくと、
海音寺潮五郎『日本歴史を散歩する』(PHP文庫,1988)に収録されている
「鉄砲談義」と題した歴史随筆の最初の方に次の一文がある(同書116頁)。

  広漠の海上で、二つの海賊団隊は終日はげしく戦ったが、王直の方利あらず、
  わずかに王直の乗った船一隻が地路をひらいて脱出することができた。

この王直の船が「種子ヶ島」に漂着して「鉄砲伝来」となるのだが、
「海上で・・・戦ったが・・・船一隻が地路をひらいて脱出・・・」とは???
船が地上を進むのか??? まさか王直の船は水陸両用なのか???

同書は『随筆 日本歴史を散歩する』(鱒書房,1956)を文庫化したものだが、
鱒書房の単行本は持っていない。でも、この「鉄砲談義」と全く同じ文章が、
「鉄砲伝来異聞」と題して『日本の名匠』(中公文庫,1978→改版2005)に収録されてる
(厳密には、PHP文庫のは、節見出しが付き、また1行だけ文章の順番が入れ替わってる)。
そこで、『日本の名匠』の方から該当する文を引く(同書226頁=改版253頁)。

  広漠の海上で、二つの海賊団隊は終日はげしく戦ったが、王直の方利あらず、
  わずかに王直の乗った船一隻が血路をひらいて脱出することができた。

PHPの編集者(下請け編集プロダクションの人間?)は、
「血路」を「チロ」と間違って読んだ上に、「地路」と誤変換して、
船が地を行くおかしさに気付かないなんて、2重に馬鹿でしょ(^_^;)

なお、1行だけ文章の順番が入れ替わっていると指摘したけど、
そのPHP文庫123頁と中公文庫232頁=改版260頁とを比べると、
PHP文庫のは文章の流れが不自然だから、これもミスだな(`^´)

*******************************************************************************

この海音寺潮五郎『随筆 日本歴史を散歩する』(鱒書房,1956)が手に入った(^^)v

「鉄砲談義」を早速確認したが、本書120頁は「血路」だった(-"-) 当然だわな^_^;

ただ、「1行だけ文章の順番が入れ替わっている」点は、本書128頁でも同様だったので、
こちらは「ミス」ではないことが分り(「節見出し」も本書には付いていた)、この点は、
「PHPの編集者(下請け編集プロダクションの人間?)」の皆様にお詫びしますm(__)m

さて、本書は収録した各篇の初出が出てないけど、書下ろしとは考えにくい内容構成^_^;

海音寺の著作リストの機能をほぼ代替する年譜としては、管見によれば、次のものがある。

①大衆文学研究会編「海音寺潮五郎年譜」
 『カラー版国民の文学 15 海音寺潮五郎 天と地と』(河出書房新社,1969)

②大衆文学研究会編「海音寺潮五郎年譜」
 『海音寺潮五郎全集 第二十一巻 史論と歴史随筆』(朝日新聞社,1971)

③尾崎秀樹編「年譜」
 『海音寺潮五郎短篇総集(八)』(講談社文庫,1979)

④磯貝勝太郎編「年譜」
 『新装版 孫子(下)』(講談社文庫,2008)

①と②には、1952年11月に「鉄砲伝来」を「六年の学習」に発表したとあるんだけど、
コレが大元なのかなぁ(..) もしそうなら当時の六年生はレヴェルが高かったんだな^_^;

小生が入手したのは「昭和三十一年四月五日 四版」で、そのカバーの袖の部分には順番に
番号付けされた鱒書房「歴史新書」27冊が紹介され、海音寺作品3点も含むが、その内の
『⑳ 幕末風雲録』は全くの初見(@_@) 「一二〇円」と値段も付いてるし、刊行済っぽいが、
①~④のどれにも出てない(@_@;) ④には1955年11月に鱒書房歴史新書で海音寺潮五郎
&芦間圭『⑮ 黒田加賀伊達お家騒動』刊行とあるから、翌年4月までの間に『幕末風雲録』
は出たと思われるのだが、一応ネットで国会図書館も調べたけどヒットしない(+_+)

思い出したからメモっておくが、立川談志『談志楽屋噺』(文春文庫,1990)205頁に、

  円楽がインタビューされて吹いている。/
  「本はよくお読みになるんですか」に、円楽、/
  「よく読みますヨ。若いころ図書館にいったら、〝もうあなたの読む本はありません〟
  と言われた」/
  言やがったネ、吹きゃがったネ。癪だから、私もそこにしゃしゃり出て、/
  「私もそうだヨ、このあいだ国会図書館にいったら言われたヨ。〝もう、先生の読む本は
  国会図書館にありません〟とネ」

円楽らしいし、談志は面白い(^^) ただ、国会図書館に収蔵・納本されてない本も実際ある(..)

でも、国会図書館を調べて、やはり①~④に出てない海音寺潮五郎&曲木磯六『関ヶ原軍記』
(鱒書房歴史新書,1956)という小生の知らない作品も存在することが分かったのは収穫(^^)v

年譜と言えば、短篇「椎の夏木立」の初出も、〈迷走〉してる上に、ミステリーが^_^;
ちなみに、同作品を最初に収録したらしい『南風薩摩歌』(同光社,1956)は未見m(__)m
では、同作品の初出に関する説(?)を順番に紹介していこう^_^;

1952年「富士」説
「椎の夏木立」を収録した『海音寺潮五郎全集 第十四巻 短編一』(朝日新聞社,1970)
578頁は、「(昭和二十七年「富士」)」とし、②も1952年に同作品を「富士」に発表と
記してはいるが、ともに発表した月は書かれていない。

1952年6月「富士」説
その後、「富士」を調べたのか、同作品を収録した『海音寺潮五郎短篇総集(四)』
(講談社文庫,1978)408頁で、磯貝勝太郎の「解説」は「昭和27・6「富士」」とした。
尾崎秀樹の③も同様に1952年6月「富士」とした。しかも、磯貝は次のように解説する。

  米軍による日本占領期間中には、時代小説は封建制礼賛の小説とみなされたために、
  武家ものを書いては、とうてい占領軍の検閲をパスすることはできなかった。武家時代に
  取材した作品を書くのを断念した海音寺潮五郎は、王朝時代と中国に題材を得た作品に
  活路を見出した。昭和二十四年に発表された「遙州畸人伝」は、西南戦争の時に起きた
  [「椎の夏木立」の]北原藤左衛門老人にまつわる逸話を中国ものとして巧妙に仕立て、
  検閲をパスさせた作品である。占領期間が終った後、作者は「遙州畸人伝」を
  西南戦争時のことに還元して、「椎の夏木立」を書いた。

初出(発表年月・掲載誌)不明説
だが、その後、同作品を収録した『田原坂 小説集・西南戦争』(文春文庫,1990)314頁で
尾崎秀樹による「解説」は何故か同作品の初出だけ発表年月も掲載誌も言及してない(@_@)
尾崎は③で1952年6月「富士」説を採ったのに、これには深い意味でもあるのか・・・(..)

1952年10月「富士」説
『新装版 列藩騒動録(下)』(講談社文庫,2007)に収録されてる磯貝勝太郎による年譜が
1952年10月「富士」とし、その最新版となる磯貝の④もまた同じで、更に未発表だった
「戦袍日記」収録の2011年の新装版『田原坂 小説集・西南戦争』文春文庫407頁の「解説」
でも、磯貝は「昭和27・10「富士」」とする。前に6月としてたのを何故修正したのかは謎(..)
しかも、不審なことに、ネットで国会図書館を検索した限りでは、同作品掲載の「富士」は
「1952-06」なのだが・・・とまれ、この文春文庫408頁でも磯貝は次のように解説する。

  米軍による占領期間中は、歴史・時代小説は、発表することを禁じられていたので、
  昭和二十四年、この作品を巧妙に中国ものの「遙州畸人伝」に仕立てて、雑誌に発表し、
  検閲をパスさせた。その後、占領期間が終るや、「遙州畸人伝」を西南戦争の小説に
  還元して、昭和二十七年、「富士」に発表したのである。  

「この作品を・・・に仕立てて」という件が引っかかる(..) 何か示唆してるのか・・・(..)

この「遙州畸人伝」は、管見では『海音寺潮五郎短篇総集(二)』(講談社文庫,1978)と
『中国妖艶伝』(文春文庫,1991)に収録されてて(単行本は『かぶき大名』[講談社,1972]
と『妖艶伝』[毎日新聞社,1985]にも収録も両書は未見)、先に引用した磯貝勝太郎の解説の
典拠と思われる(両文庫の「解説」でも磯貝は言及)、海音寺自身による次の付記も前者の
331~332頁には再録されている。

  (作者敬白)/米軍の日本占領期間中、わたしは日本の武家時代に取材した小説を書く
  のをやめていました。占領軍の検閲に引っかかって不愉快な思いをしたことがつづけて
  二回あったからでした。わたしは王朝時代と中国に取材したものを書くことで、糊口の
  方途を講じました。この作品もその期間中のものです。/実を申しますと、この作品の
  中心になる話は、西南戦争の際、わたしの村にあったことで、老人のモデルはわたしの
  小学校時代の友人の祖父にあたる人です。しかし、これを日本のものとして書いては、
  とうてい検閲をパスすることは出来ませんので、中国のことにして書きまして、二十四年
  の四月に「大衆小説」という雑誌に発表しました。検閲当局はみごとにだまされて、パス
  させました。/占領期間がおわった後、わたしはこれを西南戦争時のことに還元して、
  改めて、たしか「富士」だったと思いますが、発表しました。「椎の夏木立」がそれです。
  /わたくし共、戦前、戦中、占領期間をずっと作家であった者は、いつもこういう工夫を
  こらしては、当局をたぶらかして作品を書いたのです。何をどう書いても、決して処罰
  などされない現代の作家諸君にはまるでわからない苦労でしょう。しかしこういう工夫を
  して、当局をしてやることも、案外楽しみなものでしたよ。おひまがありますなら、
  「椎の夏木立」と読みくらべていただきたいと思います。/(昭和四十七年)
  
作家でなくても、色々と考えさせられる内容(;_;) ただ、現代も〈検閲〉はあるかも・・・

以上、海音寺作品の専門家の間でも「椎の夏木立」の初出の問題は迷走している観があるが、
スカラベ・ヒロシ(坂口博)による掲示板「スカラベ広場Ⅱ」への2014年4月7日の次の投稿
「「月刊西日本」と「月刊西日本」」によって新たな謎が・・・

  http://8611.teacup.com/marimie3/bbs/1882

  西日本新聞社が出していた「月刊西日本」については、前にも触れたことがある
  (ネット検索したら、2008.7.29の書き込みがヒットした)。/どのような小説・文学
  作品が掲載されていたかが気になるので、不明だった8冊のうち、3冊は入手。昨日届いた
  1944年12月号には、海音寺潮五郎の短篇時代小説「椎の夏木立」が載っていた。・・・

もう何が何だか分からんぞ(@_@;) 海音寺による「作者敬白」は何だったんだ(@_@)

海図も頼りにならず逆潮で小舟は陸に上がりそう(+_+) 全作品読破も夢のまた夢(;_;)

[追記160107]

ひぇ~表題作の書名を間違えてたことに今頃(!)気付いて当該個所を全て訂正m(__)m

関係ないけど、久しぶりに地元のブックオフに行ったら、文庫の棚でテーマ別の分類が
増えてて、無謀なことやるなぁと思いつつ眺めてたら、「家庭・暮らし」のところに、
片岡義男『人生は野菜スープ』角川文庫が入ってた^_^; 小生としては、不便だな(..)

[追記160130]

「椎の夏木立」を最初に収録したっぽい海音寺潮五郎『大衆小説名作選 南風薩摩歌』
(同光社,1956)を某図書館で閲覧したが(wikiの「海音寺潮五郎」から漏れてるね)、
初出情報記載なし。その収録作品は、唐薯武士、風塵帖、黄昏の丘、キンキラキン物語、
椎の夏木立、柚木父子、南風薩摩歌。なお、1938年に八紘社から同名の本が出ているが、
国会図書館をネット検索した限り、その収録作品は、南風薩摩歌、南島鐵砲記、戀涅槃、
阿蘭陀の旗、再會、島の西鄕、一夢物語、朝霧帖、薩摩隼人の9作品で全く異なってる。
萩尾望都の連載が終了するまで、デュマ『王妃マルゴ』を読むのは我慢すべきかな^_^;
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百目鬼恭三郎『新古今和歌集一夕話』

なぜ新潮社は『読書人読むべし』や『新古今和歌集一夕話』を文庫化しなかった?
単行本での売れ行きからして、出せば増刷も予想されたのにね(..)

百目鬼恭三郎『読書人読むべし』(新潮社,1984)20~26頁は「日本の古典」を読むなら、
先ず『百人一首』を読め、次は『新古今集』、その次は『古今集』と、その順番も指定してて、
丸谷才一も同書を評して「・・・この順序は正しいと思うんです。」と首肯してたこともあり
(丸谷才一&木村尚三郎&山崎正和『「鼎談書評」三人で本を読む』[文藝春秋,1985]185頁)、
百目鬼恭三郎『新古今和歌集一夕話』(新潮社,1982)をとりあえず読了。メチャ良かった(^^)v

書名の通り、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』(←誰か現代語訳を出して下さいm(__)m)に倣って、
『新古今集』から各回に1人を採り上げ「・・・最初に歌をあげてその大意を説明し、次いで
作者の略伝、関係事件、逸話などを紹介・・・」(本書7頁)する。曰く、「要するにこれは、
知的な好奇心はあるが、日本の古典、殊に和歌は苦手だ、と、日ごろ敬遠している読者のための
『新古今集』紹介なのである。」(本書8頁)。選ばれた作者は36人。でも、漏れてしまったが、
その作品は紹介に値する11人も「番外」の回で、また『新古今集』に1~3首しか入集してない
「群小歌人」(本書214頁)10人も堀河院の回で、それぞれの作品を紹介している(^^) だから、
本書が紹介する歌の数は、各回の巻頭歌の他に、その本歌など関連する歌や作者の他の秀歌も
紹介してくれているので、巻末の便利な「引用和歌索引」で数えると、数え間違いがなけりゃ、
後述の遺漏を含め377首。その内の『新古今集』入首歌は187首ゆえ約1割を紹介してることに。
ただ、元は学鐙1978年12月号~1981年12月号の連載で、連載時の季節に合わせようとして、
巻頭歌が必ずしもその歌人の代表作ではなかったり、当然紹介すべき秀作が落ちてしまった由、
そこで最後の「番外」の回において僅かばかりの補遺・修正がなされてる(本書227~228頁)。

そう言えば、学鐙には書評を書いたことがあったわ^_^; たしか、ある先生への依頼だったけど、
その研究室の弟子(助手?)に廻され、彼から対象書物の内容が小生に適してると言われたので
引き受けた仕事^_^; 担当の女性編集者とも電話で話しただけで、非常に品のある方だったが、
メールが使えないとかで原稿提出もファクシミリか郵送となり、また原稿料もまぁ良かったので
(書評対象のハードカヴァーの洋書も勿論タダで貰う)、流石、丸善は老舗だなぁと感じたこと
を思い出した(^^) 当ブログのように重箱の隅を楊枝でほじくったり揚げ足を取るような書評には
せず、最後に皮肉めいたオチをつけた程度で無難に纏めたのは、小生も大人だったから^_^;

本書はピックアップした各秀歌の鑑賞のツボを著者が外さず、明快に解説してくれているので、
和歌はどう鑑賞したらよいのかも分った気にさせてくれる(^^)v 稀代の読書人として博捜博識で
知られる著者だから、本書も和歌の解釈や作者の解説において、注釈書や歌学書は勿論のこと、
『新古今集』や歌人などに関する専門書の見解も自家薬籠中の物のように紹介・活用しており、
しかも、時にその誤りも指摘してるから(「風」だからね^_^;)、面白いし勉強になったm(__)m
とりわけ、採り上げた36人の「略伝、関係事件、逸話など」の紹介が、やはり面白かったけど、
小生的に唸らされたのは、曾禰好忠の回で、その人物逸話を紹介した次の件(本書118頁)。

  円融院の子の日の遊びに招きもないのに出席して追い出されたという話にしても、
  『今昔物語』などは、とがめられて好忠は「歌人が召されると聞いて参りました。
  私がここに参っている人たちにどうして劣りましょうや」と答えて席を立たず、
  外へ引きずり出されると、丘の上に逃げのぼって「おまえたちはなぜ笑うか」とどなった、
  という風に狷介そのものの人物に仕立ててしまっている。/これがかなり誇張されている
  ことは、同じ宴遊を記録している『小右記』では、好忠は召人の中に入っていたのに、
  公卿たちが「指名していない」といって追い立てたのだと書いていることによって明らか
  だろう。『曾丹集』に載る「与謝の海の内外の浜のうらさびて世をうきわたる天の橋立」
  という歌の詞書には「円融院御子の日に、召しなく参りて、さいなまれて又の日、
  奉りける」とある。この詞書自体がすでに『小右記』と食いちがっているが、これは
  好忠自身が自分の不遇を強調するためにした誇張と解すべきであろう。この詞書に
  尾ひれがついて、『今昔物語』にみるような物語になったものらしい。

マジ!? 同逸話を紹介する文献には『小右記』も何の断りもなく挙げてるのがあるぞ(@_@)

『小右記』と言えば、繁田信一『殴り合う貴族たち』(角川文庫,2008)だが、同書30~31頁は

  ともかく、円融上皇主催の宴に場違いな身なりで参加しようとした曾禰好忠であったが、
  この老歌人というのは、そもそも、この野遊びの宴に喚ばれた歌人の一人ではなかった。
  彼は喚ばれもしないのに勝手に押しかけてきただけだったのである。/そのため、
  好忠は手荒にその場を追い立てられることになる。襟首をつかまれて仰向けに引き倒された
  うえで、宴の場から引きずり出されてしまったのだ。/さらに、上皇の御前から
  遠ざけられた好忠を待っていたのは、殿上人たちによる無慈悲な集団暴行であった。好忠の
  ふるまいに腹を立てた幾人もの殿上人が、順々に好忠の身体を足蹴にしていったという。
  これは、老人には酷な仕打ちであった。/そして、『今昔物語集』に収められた説話の
  伝える右の一件は、どうやら、実際に起きた出来事であったらしい。藤原実資の日記である
  『小右記』に、寛和元年(九八五)の二月十三日のこととして、円融上皇の野遊びの宴の座
  から曾禰好忠が追い立てられたという事件が記録されているのである。
  
御覧の通り、「『小右記』では、好忠は召人の中に入っていた」という素振りすらない(..)

では、寛和元年(985年)2月13日における好忠に関する小右記の記述はどうなってるのか、
倉本一宏編『現代語訳 小右記 1 三代の蔵人頭』(吉川弘文館,2015)164頁の訳で確認する。

  歌人を御前に召した〈先ず座を給わった。〉。・・・曾禰好忠・中原重節である。
  公卿たちは、特に召しが無かったと称し、好忠と重節を追い立てた。 [準備をした
  源]時通が云ったことには、「好忠は、すでに召人の内にある」と云うことだ。

繁田の本は「素行の悪い光源氏たち」(同書18頁)の姿を描くのが主眼だからかもしらんが、
その史料読解・評価のセンスは疑わしくなったな(+_+) メチャ面白かっただけに残念(;_;)

当時の代表的な注釈書も確認した。阪倉篤義&本田義憲&川端善明校注『新潮日本古典集成
今昔物語集 本朝世俗部三』(新潮社,1981)は当該記事の頭注や巻末の付録で『小右記』にも
きちんと言及してはいるが、好忠が実は召人に入っていたことは指摘していなかった(+_+)
山田孝雄&山田忠雄&山田英雄&山田俊雄校注『日本古典文学大系26 今昔物語集 五』(岩波
書店,1963)は当該記事の頭注で『小右記』の同日の条に触れて次のように記す(同書56頁)。

  曾丹が擯出される件については「公卿達称無指召、追立好忠重節等、時通云、
  好忠已在召人内云々」と叙するのみ。

『小右記』の決定的な件を引用しながら、この「と叙するのみ」とは何なんだ(@_@) 好忠が
「召しも無きに」参上したのは愚かだの浅はかだの評されてる説話なのだから、その前提事実
を覆す証言があれば、もっと言挙げすべきだろ(-"-) 証拠評価を誤ってるとしか思えん(+_+)
な~んて、素人の戯言だが、この頭注を見逃さなかったのか、百目鬼のセンスを買いたい(^^)

なお、百目鬼恭三郎『乱読すれば良書に当たる』(新潮社,1985)237~240頁に収録されている
「新古今和歌集」と題した一篇では、『新古今集』について、

  その特色の中で殊にめだつのは、絵画的な美を表現しているということと、
  物語的な余情をねらっていること、の二つであるようだ。

とし(同書238頁)、入集歌を例に挙げ説明するのだが、『新古今集』の歌風が盛んだったのは
建久(1190~1198)からせいぜい建保(1213~1218)までの二十数年間にすぎないとして、
『新勅撰集』や藤原定家の新しい歌風を紹介した上で、

  要するに、『新古今和歌集』は、短かった文学ファッションの名残りなのである。

と〆ていることを(同書240頁)、メモっておこう(^^)

さて、本書にも気になった点が3つあったので、一応指摘しておく^_^;

本書228頁

  萩の葉に風うちそよぐ夕暮は音せぬよりもさびしかりけり

「番外」で、この傑作を俊恵の回の掲載後に『月詣和歌集』で見付けた時の無念さは未だに
忘れられないと述べながら紹介してるが、同歌は巻末の「引用和歌索引」から漏れてるぞ^_^;

本書155頁(2箇所)&本書232頁(巻末の「引用和歌索引」)

  朝霧や立田の山の里ならで秋来にけりとたれか知らまし

法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通の『新古今集』入首歌(15~18歳での詠!)だが、
上記の3箇所全てにおいて、「朝霧や」が「朝露の」となっているのは誤植だろうね(+_+)
小生所蔵の本書は「昭和五十九年五月十五日 六刷」なのに、誰か気付けよ(-"-)
たまたま小生は本書が取り上げた『新古今集』に入集した歌は全て手元にある、
石田吉貞『新古今和歌集全註解』(有精堂出版,1960)を参照してたから気付いただけ^_^;

そう言えば、新潮社常務取締役の石井昴が豪語してたな。

  http://magazine-k.jp/2015/07/09/libraries-are-not-ememy-of-the-books/

  新潮社の校閲は伝統もあり、20年で一人前という本当のプロの校閲者が50人以上、
  もちろんほかにも大勢の社外校正者がいます。校閲の経費で年間8億以上です。
  それだけ高品質の本を出さなければいけない。

重箱の隅&揚げ足だが、その「伝統」とやらは長くてもここ30年のこととなるわけだな^_^;
この石井の気概は頼もしい限りだけど、誤植やケアレスミスの根絶は不可能だよ(..)

以上の2つは、どうでもいいような些細なことだけど、次がチト残念な点なのだ(+_+)

本書8頁

  ・・・「逢ふことの絶えてしなくば」の作者藤原朝忠が、やせるための食餌療法といって、
  山盛りした鮎と干瓜といっしょに、大椀の水飯を何杯もお代わりしてみせ、
  医師をあきれさせた、という滑稽話まであって、・・・

本書7~8頁の『百人一首一夕話』に載る面白い逸話を紹介した中の一つだけど、この滑稽話は
尾崎雅嘉が藤原朝忠(土御門中納言)と弟の藤原朝成(三条中納言)を混同したものであると
石田吉貞『百人一首評解』(有精堂出版,1956)138頁が丁寧に論証済みだし、また、この話は
『今昔物語集』に「三条中納言、水飯を食ふ語、第二十三」として載ってて、前掲『新潮日本
古典集成 今昔物語集 本朝世俗部三』も前掲『日本古典文学大系 今昔物語集  五』も欠字と
なってる三条中納言の「名」を「朝成」と補してるわけだから、不適切な例を挙げたよね(..)
もし本書を「風」が書評したら・・・(@_@;) そもそも百目鬼は前掲『読書人読むべし』21頁で

  その『百人一首』の注解書としては、石田吉貞『百人一首評解』(有精堂)をおすすめ
  する。著者は定家研究の第一人者で、その評釈は堅実であると同時に、平安和歌の美しさ
  をよくとらえている点がすぐれていると思う。

としてたし(この評は的確だった!)、また『奇談の時代』(朝日文庫,1981)の著者として
『今昔物語集』も読み込んでるはずゆえ、マジで謎(@_@) 上手の手からも水が漏れたか(+_+)

好忠の前記逸話で、ある小説を思い出し再読したら、「ルパンを追ってて、とんでもない物を
見つけてしまった!どうしよう?」という銭形の棒読み台詞状態に・・・次回につづくm(__)m

[追記160112]

本書26頁

  「わが恋は」のほうは幽玄と妖麗をかねた歌であるし、「みせばやな」のほうは、華麗な
  パノラマ風の絵画美を描き出しているのだ。/それからみると、この「昨日見し」の歌、
  あるいは、この歌のすぐ前に採られている「みな人の・・・」・・・などは、色のないこと、
  また抒情の異質である点で、ほとんど別風の歌のように感じられるだろう。しかし、この、
  無常観の理念的な表白も、『新古今集』のひとつの特色なのであり、その代表的な作者が
  慈円なのである。

[追記161225]

久保田淳『新古今和歌集全注釈 一』(角川学芸出版,2011)は16200円もした(T_T)
その腰巻には、

  第一人者による最高峰の注釈書、ついに完成!

と記された上に、次のように書かれている(^^)

  題、歌の意味、語の詳細な解説とともに、本歌や参考歌、撰者名注記、鑑賞などを収録。
  同時代・後代の評価、影響関係、享受の歴史など、豊富な知見が満載の鑑賞欄で、
  だれでも『新古今和歌集』を深く味わえます。

しかし、本書『新古今和歌集一夕話』の方が「豊富な知見が満載」だったりすることを
別ブログ「けふもよむべし あすもよむべし」に書いた(^^)

http://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2016-12-23

ただ、本書にも瑕瑾があることに気付いたので指摘しておくことにする(..)

後徳大寺左大臣こと藤原実定の新古今集入集歌
「石ばしる初瀬の川の浪枕はやくも年の暮れにけるかな」を取り上げた
本書83~84頁に次のような逸話が紹介されている。

  とにかく、こういう[平家物語や古今著聞集の]逸話によって、
  実定は権勢欲のつよい厭な人物というイメージをつよめているようだ。
  実定が寝殿の屋根に鳶がとまらないように縄を張らせたのを、西行が見て
  「鳶がいて何の障りがあろう。この殿の御心もこんな程度か」といって、
  それからはよりつかなくなった(『徒然草』)といった話も、
  実定が厭な人物であるというイメージから生まれたものだろう。

桑原博史(全訳注)『西行物語』(講談社学術文庫,1981)188頁も紹介している(^^)

  実定はともかく、その父や祖父の実能・公能とは親しくしていたのだから、
  その関係の挿話が『[西行]物語』に取り上げられてよさそうである。
  それがないのは、『古今著聞集』『徒然草』に伝えられて、
  鎌倉時代に流布していた話と思われる次の挿話のためであろうか。

    西行法師、出家より前は、徳大寺左大臣の家人にて侍りけり。
    多年修行の後、都へ帰りて、年頃の主君にておはしますむつまじさに、
    後徳大寺左大臣の御もとにたどり参りて、まづ門外より中を見入れければ、
    寝殿の棟に縄を張りけり。あやしう思ひて、人にたづねければ、
    「あれは、鳶すゑじとて張られたる」と答へけるを聞きて、
    「鳶のゐる、何かは苦しき」とて疎みて帰りぬ。   (『古今著聞集』)

古今著聞集と徒然草に同じ逸話が載っているものと思い込んでいたが、
木藤才蔵校注『新潮日本古典集成 徒然草』(新潮社,1977)を眺めててびっくり(゚ロ゚;)
同書の第十段の最後の一節は次のようになっていた。

  後徳大寺大臣の、寝殿に鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、
  「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそ」とて、
  その後はまゐらざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、
  いつぞや縄を引かれたりしかば、かのためし思ひ出でられ侍りしに、まことや、
  「烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」
  と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。
  徳大寺にも、いかなるゆゑか侍りけん。

先に引用(孫引き)した古今著聞集の巻十五に無い部分の訳を
安良岡康作訳注『現代語訳対照 徒然草』(旺文社文庫,1971)から引くと、

  ・・・綾小路の宮が、お住まいになっている小坂殿の棟に、いつだったか、
  縄をお張りめぐらしになっていたので、あの後徳大寺の大臣の例が
  思い出されましたところ、わたしの話を聞いて、「ほんとうにそういえば、
  棟に烏が群がってとまり、お庭の池の蛙をとって食べたので、それをご覧になり、
  かわいそうにお思いになったからのことなのです」と御殿の人が語ったのは、
  なるほど、それならまことに結構なことであったと感じたことである。
  後徳大寺の大臣の場合でも、何かのわけがございましたのでしょうか。

実定にも理由があったのかも、と兼好は弁護しているのが主旨なんだから、
本書が「実定が厭な人物であるというイメージから生まれたもの」として、
この西行の逸話を徒然草から引くのはチトおかしいだろう(+_+)

別ブログ「けふもよむべし あすもよむべし」で数回にわたりボロクソに書いてしまった
池田弥三郎『百人一首故事物語』(河出文庫,1984)だが、公平を期すため紹介すると、
藤原実定「ほととぎす 鳴きつる方を眺むれば、ただ、有明の月ぞ残れる」の「伝承」の項で、

  徒然草に書かれた、鳶に巣をかけさせないための設備が、西行を落胆させたが、
  一途になさけない仕打ちとばかりは言えないという弁護も兼好が試みている。

と(同書183頁)、ちゃんと指摘していたm(__)m 同書182頁の「作者」の項では、

  御徳大寺左大臣といわれた。

と誤植はあるけど^_^;
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永井路子「後鳥羽院と藤原定家」

中国文学者が中国史の本を、独文学者が世界史の本を
よく執筆してるけど、国文と国史の関係はどうなのかしら(..)
そんな前置きとはあんま関係ないんだけど( ← ないのかよ!)、
永井路子『頼朝の世界』(中公文庫,1982)は思わずハッとさせられる指摘が多く、
面白いから何回も読んでるし、付箋もメチャ貼られてソレに書き込みもしたくらいだが、
百人一首の注釈書を3冊(5冊?)読んだこともあり、表題の一篇を改めて読み直した(^^)

藤原定家に関する知識は増えたはずなのに、新たに付箋を貼った箇所は増えたし、
各注釈書からは得られなかった事実や鋭い解釈が結構あり、改めて良い本と実感(^^)
さすが永井路子と言うべきか、百人一首と百人秀歌の問題も取り上げられてたよ(@_@)
ただ、初出(雑誌掲載)が1973年12月ゆえ、その限界は免れないんだけどね^_^;
永井が描き出した定家の出世欲や猟官運動、後鳥羽との関係は興味深いし、また、

  一流の文化人なら政治をやらせても一流だと思いこむ錯覚は、現代でも横行しているが、
  それがとんでもない誤解だということを、承久の乱はよく物語っている。

なんて小気味好いね(本書241頁)(^^) それに次の件(本書228頁)も興味深かった(^^)

  ・・・この文句[紅旗征戎吾ガ事ニアラズ]は『明月記』の一一八〇年(治承四)九月の条に
  あるので有名だが、歴史学者、辻彦三郎氏の研究によれば、この治承四、五年分の日記は、
  定家が晩年になって修正補筆した可能性が濃いのだという。その前提のもとに、辻氏は
  さらに興味ある所論を展開している。そうなると「紅旗征戎・・・・・・」の語句は、
  むしろ一二二一年(承久三)五月に、定家が『後撰和歌集』の奥書に書きつけたほうが早い
  のではないか、というのである。/細かいことは専門の分野にわたるので省略するが、
  たしかに承久三年五月といえば都中が承久の乱前後の慌しい雰囲気に包まれている折で
  あり、定家自身の感懐に最もふさわしい、という辻氏の論証には、説得力がある。そして、
  治承四、五年記を修正補筆するにあたり、当時の世相を、/「世上乱逆追討、
  耳ニ満ツト雖モ、コレヲ注セズ」/と書き、それに続けて、再度「紅旗征戎・・・・・・」
  と書きつけたのではないか、と辻氏は言われるのだが、歴史的体験と記憶が彼の心情に
  及ぼした過程を解きあかすものとして、これは大変興味ある論証である。

辻の『藤原定家明月記の研究』(吉川弘文館,1977年1月 ← 流石だね!)のことだろうけど、
百目鬼恭三郎『読書人読むべし』(新潮社,1984)31頁が同書を次のように紹介してた(^^)

  ・・・『明月記』の文献学的な研究で、まことに取りつきにくいようにみえるけれど、
  この歴史家の緻密な考証の手順は、なまなかの推理小説よりずっと面白い。たとえば、
  定家の「藤川百首」の成立年代を推定した手順を紹介すると、まず、・・・

と百目鬼による辻の考証手順の要約紹介からも、その「緻密」さと「面白」さが
充分に伝わってきて、小生も読んでみたいんだけど、まだ御縁がないんだよね(;_;)

前に引用した芸術新潮2009年11月号の特集「京都千年のタイムカプセル 冷泉家のひみつ」も
メチャ面白いんだけど、「歌聖が見つめた60年~異端の公家日記『明月記』を読む」として、
五味文彦が「解説」してて、編集部(たぶん)から次の質問がなされてた(同誌42頁)。

  ・・・ところで先程の治承4年9月条ですが、「紅旗征戎」というのは、源平の争乱を
  さしているわけですね?

これを五味は次のように肯定してるんだよね。

  この年の5月に以仁王と源頼政が蜂起し、8月には源頼朝、9月には木曾義仲が挙兵します。
  後白河院を幽閉したり、福原への遷都を強行したりする平氏政権に対して批判的な気持ち
  がある一方、敬愛する高倉天皇は平家色の強い帝ですし、平維盛のような身近な人物
  (定家の姉・後白河院京極の娘婿)が追討軍を指揮する現実もある。そんな騒然とした
  中で、自分は反乱側とも追討側とも違うぞ、求めているものが違うぞという意識が
  「吾が事に非ず」という表現になったのでしょう。

定家や明月記が主題の著作もある五味だけど、辻の先行研究をどう評価してるのかしら(..)
それらを読めばすぐに判明することかもしらんけど、読もうという気には正直ならんな^_^;

彼の『中世のことばと絵~絵巻は訴える』(中公新書,1990)は読み付箋も貼ってはいる^_^;

・五味文彦『日本の中世を歩く~遺跡を訪ね、史料を読む』(岩波新書,2009)も読了(+_+)

そして、2008年から2010年にかけて次の数冊を読んで、小生の中では底値になった(-_-)

・五味文彦&本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)

人物に関しての注に本文の記述を鸚鵡返しに写しただけのものが目立つんだよね(@_@)
谷沢永一が久松潜一を痛烈に批判したコラム「学会ボスの支配様式」で、

  世に〝久松の特急列車〟と呼ばれ、久松にひたすらインギンを通じた者ほど、
  結構な地位が配給されるという仕組み。久松が監修した『日本古典文学大系』
  (岩波書店)に、古典を読解できない無学のエセ学者が数多く登用され、
  『広辞苑』をそのまま引き写したごとき無意味な注をつけた巻が見出されることなど、・・・

とメチャ酷評していたのが(同『紙つぶて(全)』[文春文庫,1986]275頁)、
むしろ良心的に思えてくるほど無内容な注が頻出してたので、全巻通読は止めた(-_-)
注をつけたのは五味じゃないんだろうけど(各巻とも数人の訳者の名が奥付に載ってた)、
あんな代物でも訳者(若手研究者?)たちにとっては〈立派な業績〉になるんだろうね(+_+)

『日本古典文学大系』に名を連ねていた研究者たちに対する谷沢の仮借容赦なき批判は
よく知られてるけど、『今昔物語集』を担当した山田孝雄一家への評価は変遷してる(@_@)
山田孝雄一家のことを谷沢の読書コラム集『閻魔さんの休日』(文藝春秋,1983)に収録の
「文学読解に権威も定本もない」という一篇では、次のように評価していた(同書65頁)。

  巷間に流布する伝説によれば、『体系』の担当某氏は或るとき酒の勢いを借りて、
  現下の国文学者で古典の注釈を真に為し得る者、大目に見て五人か六人に過ぎず、
  他はすべて失格者なりと洩らしたという。『今昔物語集』を受け持った
  山田孝雄一家四人を便宜上一人と数えれば、ほぼ妥当な観察と同感し得る。
  それ程『体系』には本質的に失格である売名の徒が、餌の分け前に与かるべく
  群がったのである。

この後は〝久松の特急列車〟に続けて、ここに書き写すには勇気がいる内容なので略^_^;

が、『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋,2005)所収の「学者の晩節」という一篇への
自注では(同書151頁)、岩本裕『日本仏教語辞典』(1988年)の「はしがき」に依拠して、
『体系』の内容見本の印刷例に引用されたサンスクリットに相当の誤りがあったので、
岩本が朱を入れて岩波に送ったのに出版された『今昔物語集』はそれを全面的に無視し、
注の出典の検討も不充分だったという一件を紹介。その十箇所以上の厳しい指摘は尤もとし、

  しかし山田孝雄一家の如き権威主義者に、いくら言うて聞かせても無駄であろう。

と斬り捨てる^_^; 一方で同書479頁は山田の学位請求の経緯を好意的に描いてるけど^_^;

以上の谷沢永一と岩本裕と日本古典文学大系『今昔物語集』に関する一件は、
「東ゆみこのウェブサイト」の「わたしの道具箱 岩本裕『日本佛教語辞典』」が、
それぞれの本の当該箇所も丁寧に紹介・解説し、しかも余情のある素晴らしい内容(;_;)
この想に随うまま綴ってしまった小文の口直しにおススメ^_^;

http://mythology.tea-nifty.com/higashiyumiko/2011/05/post-6a8a.html

[追記151202]

冒頭の前置きを「あんま関係ない」とか書いちゃったけど、この記事は、
〈専門外のことに首を突っ込むということ〉を一貫したテーマとして書いたのを忘れてた(^_^;)
その能力不足で自らの専門なのに〈専門外〉にしか見えないケースも広く含めてだけど^_^;
あと、辻の本の発行年の「1月」は削除し忘れただけで、そこには深い意味はないですm(__)m
以上、自作自注による訂正でしたm(__)m

[追記190331]

〈「春の古里」というのは、定家独自の表現で・・・従来の歌人が思いも及ばなかった言い方〉などと
永井路子は書いているけど、下記の別ブログで指摘したように、間違ってるだろ(-"-)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-30
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