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新田次郎「迷走台風」

【承前】新田次郎「迷走台風」ネタバレゆえ良い子は読まないでね(^^)
松本清張かよっ!とツッコミたくなる仰天ストーリーなんだな、これが(^_^;)

荒川秀俊『お天気日本史』(河出文庫,1988)から、1921年に予想外の転進・速度で台風が
襲来して警報を出せず、県下に甚大な被害を招いたと非難された伏木測候所の所長だった
大森虎之助が責任をかぶって11月26日に魚津埠頭で入水してしまった悲劇を前回紹介(:_;)

同悲劇は伏木測候所に勤務経験ありという藤田駿による2012年8月20日付の〈天気予報は
「人命」を救うためにある〉と題した、福井新聞のサイト上のwebコラムも紹介している
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/teach/index.php?page=article&storyid=499

新田次郎が1956年にこの一件を題材に短篇「迷走台風」を発表したことは知られている。
同作品は同『孤島 他四篇』(光和堂,1956)に収録も新田の全集には目次を見る限りでは
未収録らしく、以下は同『怒濤の中に』(文春文庫,1979)141~158頁所収のものに拠り、
そのストーリーを先ずは紹介したい(ここでネタバレ警報発令!)。

富山県伏木測候所長の小森虎之助は1921年9月25日18時の天気図から26日朝には
台風は伊豆あたりに接近すると考えたが、安全第一を取って、一応は台風襲来の警報を県庁と
警察と漁業組合に出しておいた。そして当直者の高倉技手に後を任せて、小森は帰路につくも
何となく胸騒ぎがしたので引き返し、測候所にある暴風雨標示柱に灯を掲げる準備をしたが、
木柱は腐りかかっていたし綱も切れかかっていて、石油ランプが落ちた場合の危険も考えて、
標識灯を掲げることは中止し、帰宅した。ところが、この台風は全くの常識外の進路と異常な
速さで突進し、翌26日5時半に風の音で目を覚ました小森は内心やられたと叫んで起き上がり、
測候所へと駆け付けた。測候所では若い高倉が真っ青な顔で雨に濡れながら観測していたが、
観測机の上には中央気象台からの台風の指示電報があった。暴風雨標識掲示所への通報は
中央気象台からの指示があり次第、測候所より通知する仕組みだった。小森は「なぜ電話を
かけてよこさないんだ」と高倉を叱ったが、富山湾に面した氷見、新湊、和合、魚津、生地の
各暴風雨標識掲示所への電話連絡は既に済ませたと思い念を押さなかった。暴風雨が収まって
から小森が港に行くと漁船の大半は遭難した事実が分かり、また高倉が各暴風雨標識掲示所へ
の電話連絡を怠っていたことも明らかになった。昨夜零時過ぎに届いたのに「高倉がなぜこの
重要な電報を朝まで握りつぶしていたかは今尚不明である。」(同145~146頁)。経験の浅い
高倉をこの夜の当番にした責任の一半は所長にあったが、この不始末に対して世論はそれほど
激しくは所長を責めなかった。小森所長の伏木測候所での30年来の業績に対し町の人は好意的
だったし、一応は警報が出てたこともあり、もし暴風雨標識掲示所への通達があったとしても
漁船が朝の豊漁を前にして港へと引き揚げたかは疑問だったからだ。ところが、10月になると
測候所の次席である山下遠州が小森の自宅を訪ねて高倉の免職を思い止まるよう求めたのだ。
山下は高倉とは姻戚関係にあり、山下の父は県会議員で、山下の任用も県会議員の父が県営で
ある測候所に強引に押し付けたものだった。小森が断ると、このままではすみませんよ、所長
さんだって外に出してもらいたくないものもあるでしょうからね、と山下は言い残し帰った。
翌朝からは町の新聞記者が次々と現われ、小森が尽力した立山観測所の開設について質問し、
その設立に伏木測候所の維持費を注ぎ込んでるとの噂があるが、と測候所の経営にも触れた。
町の新聞記者の中には新聞をバックにゆすりを働く者も当時いたという。ゆすりの種の出所が
山下なのは明白だった。記者達による神経戦術は次第に露骨となり、小森の俸給の4ヶ月分に
相当する額を人を介して要求してきた。小森は要求を蹴ったが、10月下旬には脅迫者達は一段
と強い態度となり、9月の台風の件も持ち出してきた。測候所の暴風雨標識柱に石油ランプを
掲げられなかったのは、木柱が腐ってるのを知ってたのに修理していなかった所長の怠慢で、
それなのに県から石油代を毎月もらってたのは会計上の違反だと、小森にとって痛いところを
突かれてしまった。小森の家を4人の子供を連れたみすぼらしい姿の女が訪ねて来た。海から
よく見える測候所の暴風雨標識に赤いランプさえ上ってれば、夫は死なずにすんだのに云々と
語るが、その文句と口調から誰かに嗾けられて来たのは明らかだった。ついに脅迫者達からは
11月16日の朝までに現金を持って来るようにと最後通牒があり、小森は県庁の有力者である
和倉重郎に一切を打ち明けたが、意外にも和倉は一連の話を知ってて、新聞に載る前に辞表を
出せば金は出さずに済む、貴方も56歳だし引退の潮時では、と含みのある言葉を掛けられた。
既に山下県会議員の手が回っていたのだ。ここに至り、山下にだけは所長の座を譲るまいと、
脅迫者達に金を払うことでこの場をしのぎ、中央気象台に山下以外の後任を決めてもらおうと
小森は考えた。唯一の財産も手放し、親戚から証券類までかき集めて、何とか約束の一日前に
要求額を揃えたが、脅迫者達は証券類が大部分と分ると怒って受領を拒否し、支払期限の延長
を頼んでもけんもほろろだった。翌日、測候所の小使い室から石炭酸の瓶を自宅に持ち帰り、
小森は自室で服毒自殺を遂げた。遺書には、台風の際の不始末を世間に詫びる一方で、山下を
責め、脅迫者達に怨恨を叩きつけていた。翌日、北陸地方の新聞は一斉に事件を報道し、既に
事件の核心を衝いている新聞もあった。日が経つにつれて、山下や脅迫した新聞記者に対する
世論は高まり、他方で、所費の流用問題や台風の責任問題などは新聞に出ることはなかった。
山下は小森の死と同時に所長となったが、小森の自殺事件に警察が動き、小森の死後数日して
刑事が所長室を訪れ、山下は任意出頭のかたちで引張られた。山下の所長の任期は正確には
3日間だった。小森の死後、測候所に県の会計監査が入るが、運用上若干の不備な点はあるも
概して経理は良好との判定だった。数名の新聞記者が脅迫罪で有罪になったが、山下は3人の
弁護人をつけ、無罪となった。「伏木迷走台風はその後多くの気象学者によって繰返し研究
されているが、この台風とともに迷走した人々のことは殆どその実相が知られず、小森虎之助
は台風警報失敗の責を負って自殺した所長とされたまま今日に及んでいる。」(同158頁)。

以上、あらすじ紹介てゆーか要約になったが、木原武一みたいに上手く要約できない(^_^;)
なお、作者には悪いけど、小説・文学的な道具立ての一切や登場人物の一部は省いたm(__)m

大森虎之助の自殺を松本清張ばりのドロドロした陰謀劇で描き、荒川前掲書を読みジーンと
きてたのが、ちょっと鼻白むわな(+_+) 自殺に追い込まれた「真相」に加え、自殺した日付
や自殺方法など細かい点でも荒川前掲書と異なるけど、この手のモデル小説で気になるのは、
どこまでが事実に基づいた叙述で、どこからが作者によるフィクションなのかだよね(^_^;)
特に末尾の引用部分は、実際この小説の〆の一文だけど、まるで本作品だけが真実を描いて
いるかのように思わせる終わり方だよね(..) 新田次郎は本作執筆時は気象庁に在職中だし、
中央気象台長も務めた藤原咲平の甥だから、気象界の裏表に通じてそうなポジション(^_^;)
それに彼の作風は、代名詞である山岳小説は未読だけれど、『武田信玄』『武田勝頼』は
何回も読み(『新田義貞』『武田三代』も既読)、その時代小説は考証が行き届いてた感。

佐藤順一と言えば、今やアニメの監督しか知られてないけど(同姓同名で有名人がいるのは
マジ迷惑(+_+))、「迷走台風」でもその名前と業績が紹介(同148頁)されている気象界の
先達がいる。危険かつ不可能とされてきた富士山頂での越冬観測を初めて行ない、富士山頂
観測所設立へと道を開いた偉人で、新田の短篇「凍傷」(1955)の主人公にもなってる(^^)
その佐藤が日本気象学会の機関誌「天気」2巻7号(1955)に「故伏木測候所長大森虎之助君
をしのびて」という論文を寄せていた(同誌は同会HPから閲覧させて頂きましたm(__)m)
同176頁には台風の一件での測候所の失策を地方長官や新聞社が責問したことを紹介した後、

  それに周囲の事情は幾多の方策を講する必要もあって、経費の運営等成規にもとるものも
  生し職員中にも物議をかもした。

との記述があって、これは「迷走台風」の筋書きとも符合するのかな(..) 更に同論文に対し、
田口克敏、竜雄の2人から誤りの指摘があり、その後、同誌2巻10号(1955)に佐藤によって
3点の訂正が掲載されたが、その一つは次のようなものだった(同279頁)

  大森虎之助の最後[原文ママ]は魚津湾頭に投身自殺と述べたが、自宅後庭で服毒自殺
  と訂正する。

こうなると、あのドロドロした次席による陰謀もまさか・・・大人の世界って怖いよぉ(;_;)

なお、wikiの「台風」の項に次の記述があるけど、その根拠は示されていない(-_-)

  ・・・測候所長の自殺の裏には気象観測施設に関する県と国のいさかいがあったようである。

コレって、結構ネット上に拡散してるね、どっちが卵か鶏かは知らんけど(^_^;)

自殺した日は、荒川、佐藤、藤田が11月26日とするのに対し、新田は11月16日としている(..)
大森虎之助で立項した人名辞典を見ると、日外アソシエーツ編・発行『20世紀日本人名事典』
あ~せ(2004)528頁は「迷走台風」のモデルといわれることまで記しているのに没年の日付を
11月26日としていて、他方で、上田正昭ほか監修『日本人名大辞典』(講談社,2001)385頁は
「迷走台風」に言及してないにもかかわらず11月16日自殺とする謎(^_^;) なお、両書の記す
大森の享年は新田や佐藤と異なるが、大森の生年が改暦前ゆえややこしいのでスルーm(__)m

なお、海難の責を負って、大正11年には銚子測候所長の大村信之助が、昭和29年には輪島
測候所長の深瀬克巳が入水したことを佐藤(同174頁)は「追記」(前者は藤田も紹介)(;_;)

この富山県下で甚大な台風被害が生じた9月26日だが、1954年の同日には台風15号により
青函連絡船洞爺丸が座礁転覆して多数の死者・行方不明者が出た史上最大の海難事故、
1959年の同日には伊勢湾台風が中部地方を直撃し明治以降最大の台風被害となったため、
伏木測候所の一件は忘れられがち(;_;) 荒川の〆の一文に前回疑問を呈した所以である。

毎度おなじみのこととはいえ、予想より長くなったので、次回につづくm(__)m

[追記]

記事のタイトルを内容に即して変更しましたm(__)m

[追記151212]

「大森虎之助」についてだけど、
日外アソシエーツ編・発行『明治大正人物事典 Ⅱ 文学・芸術・学術篇』
(紀伊國屋書店発売,2011)119頁も、前記『20世紀日本人名事典』と記述は同じで、

  気象学者 新田次郎「迷走台風」のモデル

と先ずあり、「~大正10年(1921)11月26日」、「・・・11月入水自殺した。」として、

  新田次郎の小説「迷走台風」のモデルといわれる。

と〆られていた(..)

[追記160326]

ネット配信「防災情報新聞無料版」の「大正10年富山湾台風~測候所長自殺(90年前)」からメモ。

  出典:宮澤清治著「日本気象災害史」、荒川秀俊著「お天気日本史」、国会資料編纂会編
  「日本の自然災害」

  http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6074.html

ところで、高橋浩一郎『日本の天気』(岩波新書,1963)120頁に、

  放物線とか直線の経路ではなく、複雑な経路をとる台風のことを迷走台風といっている。

とあるように、「複雑な経路をとる台風」は全て「迷走台風」と呼ばれるもの思っていた
(ただ、wikiの「複雑な動きをする台風」の項に「2007年から改称された」との説明がある)。

新田の短篇「迷走台風」も、その劈頭(前掲文春文庫『怒濤の中に』141頁)において、

  迷走台風という名は何時頃、誰がつけたのかよく分らない。豆台風と同じように新聞が
  使い出して、そのまま、呼名になったのかも知れない。通常考えられる台風のコースを
  外れて、異常な方向につっ走る台風のことである。/迷走台風の例を調べていくと、
  大正十年九月二十六日富山県伏木を襲った台風がこの好例の一つとして拾い上げられる。

と数ある「迷走台風」の中でも当該「伏木迷走台風」(同158頁)を「好例の一つ」とした。

ところが、大谷東平『台風の話』(岩波新書,1955)60頁には、

  名を残したといってよいのか、悪名を馳せたといった方がよいのか、ともかく、
  名をもらった台風は次の通りである。

として、大正11年8月「新高台風」、大正13年8月「沖縄台風」、昭和8年10月「屋島丸台風」、
昭和9年9月「室戸台風」、昭和20年9月「枕崎台風」、同年10月「阿久根台風」などと並んで、

  ・・・昭和十年九月に複雑な進路をとった「迷走台風」、・・・

というのが挙げられていた(@_@;) 同書87頁には「台風の異常進路」の類型の一つとして、

  第五の場合は迷走型といって、琉球の東方から北東に向かい日本を目ざして進んできた
  ものが、四国沖まで来て急に北西に曲り、日本西部に上陸すると又北東に曲がるという
  ややこしいものである。この例は大正九年八月、昭和十年九月、昭和十八年七月に二回、
  昭和二十年八月に二回、昭和二十四年八月の合計七回の記録がある。

と説明されているが、ここでも大正10年9月の「伏木迷走台風」は挙げられていない(@_@)
大谷の言う昭和10年9月の「迷走台風」のことは「普通の浪害よりけたはずれて強い浪害を
起こした台風」の一例として、同書143~144頁に紹介されているが、ネットで検索すると、
前出の「防災情報新聞無料版」には、「昭和10年9月の迷走台風+秋雨前線(80年前)」と
「第四艦隊事件(軍艦の激浪切断事件)~各艦艇の強度を徹底補強(80年前)」が出てた。

  http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_7087.html

この「第四艦隊事件」については、同サイトがリンクしていた、
畑村創造工学研究所「失敗知識データベース」に詳しいし、wikiにもある。

  http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CB0011022.html

荒川・前掲書54~58頁は「帝国艦隊とイダ天台風」と題し(「迷走台風」とは呼んでない!)、
この昭和10年9月の台風が齎した「第四艦隊事件」の気象学的考察とともに、異国の図書館で
著者が発見・複写した同事件の貴重な写真も収められている(^^)

新田の『小説に書けなかった自伝』(新潮文庫,2012)131頁は、大谷東平から退職を勧奨された
エピソードを紹介するが、2人が「比較的親しくしていることを知っている人事課長が」大谷に
肩叩き役を依頼した由。「比較的親しく」しながら、短篇「迷走台風」発表の前年に刊行された
大谷の同書を新田は読まなかったのか、あるいは読んだ上での記述だったのか、気になる(..)

今月21日の追記で紹介した、小ブログへのアクセスの際の「検索ワード」の笑えた例を受けてか、
昨日、「杉本苑子嫌い」が現われて、超ウケた^_^; ただ、溜飲が下がるような内容じゃなくて
舌打ちしたんじゃないかな^_^;「動物」のタグも時々クリックされるけど、申し訳なしm(__)m
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コメント 2

mimimomo

台風の呼び名もちゃんと決まりがあるのですかね~
行ったり来たり変わった進路を取るのは全部迷走台風かと思ったけれど。
by mimimomo (2019-07-29 06:17) 

middrinn

被害が大きかった場所にちなんで名付けているんですかねぇ(@_@;)
行ったり来たりは「迷走型」(昨年の台風12号は「逆走型」)ですが、
「迷走台風」は普通名詞だったり固有名詞だったり厄介ですね(^_^;)
by middrinn (2019-07-29 07:31) 

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