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杉本苑子『永代橋崩落』

週に1回以上ブログを更新すると、もっとリピーターが増えるでしょう。
← 量産型ザクの勧めかよ? So-netブログレポート3月分は(-"-)
そもそも「リピーター」がいるのかどうかすら、とんと判らぬ(+_+)
試しに記事を4月5月はアップせず、追記も5月はしなかったけど、アクセス数は変わらんし^_^;
んなわけで、この壮大な実験は何の成果を収めることなく終了(;_;)

3月にブログを暖簾分けしたら、書くことが被ってしまうことに気付き、
この本家ブログが二番煎じとなり、そのレーゾンデートルも分らなくなってしまったので、
このまま放置して来年の10万アクセス達成を待つかとも考えたけど( ← 何の意味が?)
本の屑成仏のために・・・ソネットよ、私は帰ってきたっ!!!
← ガトー少佐の名言を真似したかっただけ(ノ≧ω≦)てへぺろ

もしも当ブログにリピーターがいたなら、
野際陽子の指導で〈なんどめだスギモト〉とお習字されそうだけど、
杉本苑子『永代橋崩落』(中公文庫,1992)を取り上げたい^_^;
でも、面白かったから、デラーズ・フリート「本の屑」作戦に非ず(^o^)丿

「文化四年[1807年]八月十九日―――。死者・行方不明者二千人を越す史上有数の大災害・・・」
(本書248頁)だった永代橋崩落をめぐる8篇の連作小説(オムニバス小説?)で編まれた本書、
著者の相変わらずのストーリーテラーぶりで読ませるけど、やりきれない気持ちにも^_^;

先ずは、この大災害を手元の本で確認してみた(^^)
鹿島萬兵衛『江戸の夕栄』(中公文庫,1977)127頁も紹介してたし(ただ、「委しきことは
蜀山人の『夢の浮橋』を見るべし」とある)、また江戸時代のこと調べるなら、やっぱりコレ、
矢田挿雲『江戸から東京へ(九)江戸の成るまで他 索引』(中公文庫,1976)133頁も斯く記す、

  永代橋墜落の惨話は、江戸時代の数ある惨話のうちでも、幕の内格である。

ちなみに、矢田挿雲は、この『江戸から東京へ』の第六巻(中央公論社,1981)の162~167頁で
「永代橋墜落の椿事(上)」、同168~173頁で「永代橋墜落の椿事(下)」とそれぞれ題して、
この大惨事を詳述している。これも上記第九巻の「索引」のおかげで、すぐ見つけられた(^^)v

なお、本書が描き出した各ドラマには、ネタ元があるとの指摘がネット上でなされてた(@_@)
若干ネタバレにはなるが、例えば、「石仏散歩」という趣味のいいブログに曰く、

  『夢の浮橋』には、惨事に関わる人間模様が列挙されている。・・・
  杉本苑子の『永代橋崩落』は8話の短編集だが、ネタ元は『夢の浮橋』ではないか。

  http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/7ceda6c36f621f8f6328fe5730c82acd

また「妄想オムライス」という興味深いブログも同様の指摘をしていた(^^)

  ・・・事故に乗じて起きたミステリアスな殺人事件や、助かった者のその経緯など、永代橋
  崩落事故に巻き込まれた人々の逸話と事故の詳細が、大田南畝の記す『夢の浮橋』で読める。
  これを読むと杉本苑子の『永代橋崩落』が大田南畝の記録をもとに書かれたものとわかって
  面白い。『夢の浮橋』は『燕石十種 第四巻』に収録されている。

  http://tiiibikuro.jugem.jp/?eid=1146

『夢の浮橋』は手元の『江戸の夕栄』でも言及されてたので、上記情報を頼りに、
森銑三&野間光辰&朝倉治彦監修『燕石十種』第四巻(中央公論社,1979)を借りてみた。
ざっと斜め読みした限りでは、この事例を小説家の想像力で膨らませたのがアノ話か、
こっちの事例とこちらの事例を組み合わせた話を骨格にしてあんなストーリーを拵えたのか、
といった具合に、お蔭様で本書の2話分の「ネタ元」は小生にも判ったm(__)m

他の人の読後感とか色々と勉強になりますなぁ(^^)
選書( ← 読む本の選択ね)の目安にしたいけど、ネタバレしてるのもあるから、
あくまで読了後に検索することにしてる^_^;

さて、本書を読んで気になった点もあった^_^;

本書は、この死者・行方不明者2000人超の大惨事を〈人災〉として描いているが、
この人災の責めを負うべき関係者の中に、実は有名人がいて、しかも、この大惨事を
彼がまるで他人事のような書きっぷりで記録していたことにはチト呆れた(-_-)

以下、なるべくネタバレしないように書くから、本書未読の方には分りにくいかもm(__)m

本書10頁

  南の与力・渡辺小右衛門が、奉行の根岸肥前守鎮衛に呼ばれ、/
  「永代橋警固の総指揮をとってくれ」/
  と、特に命ぜられたのは、・・・

何故か「鎮衛」に「しずひろ」とルビが付されてるけど、間違いなく『耳袋』の著者(@_@;)  
ネタバレ防止で書けないが(しつこい!)、直後の本書11頁の「やりとり」が実際あったなら、
この大惨事と相当因果関係があるとして、根岸鎮衛は(とりわけ現代なら)訴えられてたね^_^;

この「やりとり」をみると、根岸鎮衛は権勢家に阿ったヒラメ奉行にしか思えん^_^;
根岸鎮衛は立志伝中の人物とされるが、このように時の権力者のために便宜を図る指示をし、
それが大惨事の一因となったにもかかわらず、(本書だと)その責任は現場の部下に取らせて、
平然としているところに、その立身出世ぶりの鍵がある、と思うのは邪推だろうか^_^;
東洋文庫版の編注者による「解題」(『耳袋 1』[東洋文庫,1972]399頁)を見ると、

  右に掲げた官歴をみても、根岸鎮衛の立身ぶりがいかに目ざましかったかがわかるが、
  上司の覚えがよかったことは、賞賜の度数によっても知られる。

とあるのも頷ける^_^;

根岸は名奉行とされ(例えば、丹野顯『江戸の名奉行~43人の実録列伝』[文春文庫,2012])、
森銑三『偉人暦』下(中公文庫,1996)351頁「十二月十九日 大岡越前守」の項も記している。

  大岡政談の名の下に行われている、彼の取り扱った事件はずいぶん多い。しかしそれらの
  大部分は支那小説の翻案だったり、彼より前の曲淵甲斐守、根岸肥前守の裁判の附会
  だったりしている。板倉重宗の逸話も大分混じている。

ただ、生没年は大岡忠相が1677~1751、 曲淵景漸[まがりぶち かげつぐ]は1725~1800、
根岸鎮衛は1737~1815だし、「彼より前の」とあるのは、森銑三の誤謬 or 誤植だよね(+_+)

森銑三「誤植」(森銑三&柴田宵曲『書物』[岩波文庫,1997]165~169頁 → 高橋輝次編著
『増補版 誤植読本』[ちくま文庫,2013]148~151頁にも収録)は大変興味深い内容だが^_^;

名奉行とする根拠に、永代橋破損(問題の崩落とは無関係)訴訟を裁いた事案が挙げられるが、
その出典は『耳囊 下』(岩波文庫,1991)巻末付録の志賀理斎編「耳囊副言」の後に載ってる、
理斎主人による「追加」(同書下巻447~448頁)で、同末尾の「此二ケ条はある人のもの語り、
虚実の程はしらねども爰に記す。」(同書下巻448頁)との付言には皆触れないんだよね(-"-)
森銑三の指摘のように、得てして「翻案」「附会」だったり、他人の「逸話」が混じったり
しがちなんだから、きちんと「虚実」を吟味した上で、名奉行の根拠としてほしいよね^_^;
(なお、「up」は「上へ」しか御存じないようだが、「奥へ」も辞書に載ってるぞ^_^;)

ただ、公平を期すと、前掲『江戸から東京へ』第六巻163頁は(ネタバレ防止でかなり略した)

  この日[19日の祭礼当日]は、・・・ので、永代橋へ御船手の役人が出張して、綱をはって
  交通を遮断した。/・・・が橋の下をすぎたところで、役人は非常線を撤した。

藤野保『徳川幕閣~武功派と官僚派の抗争』(中公新書,1965)の巻末に折り込まれている
「江戸幕府の職制(一七世紀後半~一八世紀前半)」を見ると、「船手頭」は若年寄の下、
他方、江戸町奉行は老中の下だから、19世紀初頭も同じ職制なら、この「御船手の役人」も
江戸町奉行とは指揮系統が別で、根岸は阿ったわけでもなく、大惨事の責任もないのかも^_^;

また責任論に関して、矢田の前掲書第六巻171頁は、

  天明度、安政度の天変地異とともに、旧幕時代の椿事の一に数えられる永代橋墜落は、
  何に原因するかといえば、それがかよわい仮橋であったからである。

そして、同書173頁によると、

  幕府は水死者にたいし、稼ぎ人ならば鳥目十五貫文、家族ならば三貫文ずつ、
  怪我人にたいし、稼ぎ人ならば五貫文、家族ならば一貫文ずつの弔慰金を贈り、
  なお罹災者中の困窮者にたいしては、救助金を与え、一方架橋工事の掛り役人を譴責した。

とあり、当たり前のことだろうけど、奉行の根岸は職責を問われていない^_^;

ちなみに、根岸の永代橋崩落直後の事故対応として、矢田の前掲書第六巻166頁は、

  町奉行根岸肥前守は、佐賀町の米会所町人の門前へ、仮訴所と貼札を出し、
  吟味与力中村又蔵、同安藤小左衛門以下同心等を指揮し、すばやく死者の身許を調べ、
  確かな分から遺族へ下げわたした。

配下の者に指示は出してるが、現場で汗かいてるわけではなさそう(-_-) ← 性格悪い^_^;

大惨事の責任論は置いておくとしても、根岸が事故発生当時の町奉行だったことは事実で、
これだけの犠牲者を出した大惨事なのだから、かなりの心理的衝撃を受けたと推察(;_;)
その根岸が永代橋崩落について書き残しているとなれば、やっぱ気になるものだよね(..)
それは根岸鎮衛の有名な著書『耳袋』の中にあったので、その一篇を以下の3冊で読んだ(^^)

長谷川政春訳『耳袋』(教育社新書,1980)229~231頁「亡くした子供に会った不思議」
鈴木棠三編注『耳袋 2』(東洋文庫,1972)192~193頁「不思議に失いし子に逢う事」
長谷川強校注『耳囊 下』(岩波文庫,1991)125~127頁「不思議に失ひし子に逢う事」

この教育社新書は今の今まで全訳だと思い込んでた(+_+) 厚さを見りゃ、判るはずなのに^_^;
だって、表紙に「原本現代訳」と大きく記載されてるんだもん(-"-)
では、その話の冒頭を同書229頁から引用するので、よぉ~くお読み頂きたいm(__)m

  文化四年(一八〇七)八月十五日、深川八幡の祭礼の時に、
  参詣の人がたくさん集まりすぎて永代橋が落ちてしまい、
  千五百人あまりが溺死するという大惨事があった。・・・
  
お判り頂けただろうか^_^; 先ず日付が違うじゃん(@_@;)
これだけの大惨事を目の当たりにした「名奉行」が、その日付を間違えるかね(-"-)
2011年3月11日に東北三県の知事を務めていた人物が、約一年後のプライヴェートな日記に
「2011年3月15日に発生した東日本大震災で・・・」などと記述してたのが判ったら、どーよ?
しかも、事勿れ主義なのか、ネタバレ防止で伏せた例の事実にも触れていない(-"-)
まるで自分が無関係だったかのように当事者意識が感じられない文章で現代なら炎上必至だけど、
斯くも醒めた視線の持ち主だからこそ、仰天奇談も淡々と書き記した『耳袋』が出来たわけだ^_^;
ただ、この日付すら誤記してるとなると、『耳袋』の他の話の日付も怪しいね^_^;

最後に、本書を読んで、意を強くしたのが、これだけの数の犠牲者を出した事実から、
隅田川河口付近は想像していた以上に深く、また流れも速く複雑だということm(__)m

未だに鬼平人気で、「十八世紀末に犯罪者・犯罪予備軍に授産を行った施設は、世界的にみても
先駆をなす。」(丹野・前掲書164頁)とか、「初の更生・職業訓練場」(小松健一執筆2015年
10月16日毎日朝刊「鬼平を歩く 江戸・東京今昔⑪石川島の人足寄場)などと、その一面だけが
クローズアップされてる石川島人足寄場(+_+) 過去の類似施設の歴史や当時の政治史的文脈、
上記の地理的事実を勘案すれば、所詮は社会防衛のための施設であり、被収容者の逃亡防止に
重きを置いた流刑的性格が大きいことに気付いてもいいはずなんだけど、思考停止してる^_^;
小林信彦『ハートブレイク・キッズ』(新潮文庫,1994)の主人公の直感力を見習うべし(^^)
同書カバーの内容紹介文によると、

  川村絵理は23歳のフリーター。人気作家夫人に1年間の留守番を頼まれたのは
  佃島のリバー・ハイツ。LDKは30畳、サウナにプールにテニス・コート。
  降って湧いた幸運に浸ってい・・・

たが、部屋を案内してくれた男の説明から、実は「景色はいいけど、不便なところにきてしまった」
(同書17頁)ことに気付いて、次のように嘆息する(同書17頁)、

  これでは〈島流し〉だ。ほんとうに〈島〉だから、しゃれにならないのだけれども。

[追記161006]

毎日新聞の小松健一記者の人足寄場論に気になる点があったので分家ブログで再論した(^^)

http://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2016-10-06

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