山田雄司『怨霊とは何か』
いい加減かつ大雑把な叙述だが、あるテーマやジャンルを
手頃な分量で啓蒙的に概説してくれる新書らしい内容で勉強になったのが、
山田雄司『怨霊とは何か~菅原道真・平将門・崇徳院』(中公新書,2014)。
怨霊に興味はないが(枕元の奇談の本には怨霊の話も含まれてるけど)、
副題の人名に惹かれて読んでみたら、勉強になることもあって、
読んで損はしなかった本だった(^^)
個人的に勉強になった点をノートしておく(^^)
本書178頁
禅宗においては本来は霊魂の存在は否定され、ましてや怨霊は「幻妄」であったが、
室町時代には禅宗が鎮魂の主流であった。そして、怨霊という思想よりも、
怨親平等という考え方に則って鎮魂を行うというあり方が
次第に大勢を占めるようになっていった。
本書179頁
戦国時代を境に神観念は大きく転換した。さまざまな現象の背後に神意の存在を感じ、
さらなる災異が起きないよう神をなだめるという国家による神々への対応は行われなく
なった。それと対照的に、豊臣秀吉、徳川家康といった国家の主導者に神号を与えて
神として祀り、以降傑出した人物が神として祀られる先鞭となった。この現象は、
相対的に神の地位が下がることにより人が神となることができるようになるのとともに、
神に対する崇敬心が希薄になったことを意味しよう。
本書183~184頁
それではここで、怨霊の考え方と密接な関係にある「怨親平等」思想について見てみたい。
中村元『佛教語大辞典』(東京書籍、一九八一年)には「怨親平等」について、
「敵も味方もともに平等であるという立場から、敵味方の幽魂を弔うこと。・・・
日本では戦闘による敵味方一切の人畜の犠牲者を供養する碑を建てるなど、
敵味方一視同仁の意味で使用される。」と説明している。/「怨親平等」という語は、
五世紀に漢訳された『過去現在因果経』にすでに登場しているが、ここでは、
すべての衆生に対して、[仏法を]信じているか信じていないかにかかわらず平等に
施しを与えよという意味で使われている。・・・/一方、「怨親平等」という語は
用いられないものの、敵味方関係なく供養するというあり方は、すでに奈良時代から
見られる。[ex.仲麻呂の乱後の百万塔陀羅尼]
本書185頁
そして、天暦元年(九四七)三月二十八日に朱雀上皇は延暦寺講堂で承平・天慶の乱に
おける戦没者のための千僧供養を行っているが、藤原師輔が奉じた願文の中に、「官軍に
在りといへども、逆党に在りといへども、既に率土と云ふ、誰か王民に非ざらん。勝利を
怨親に混じて、以て抜済(救済すること)を平等に頒たんと欲ふ」(『本朝文粋』)
という文言がある。ここには王土王民思想が見られ、王土である日本に住む人は
逆賊であってもみな天皇の民である王民だとしている。そしてさらに、亡くなれば
官軍・逆党すなわち親・怨の区別もなく、平等に苦しみからの救済がもたらされる
とのことを祈願していることから、「怨」「親」の語句を用いて、戦闘で亡くなった
後には敵も味方もなく成仏するよう祈願するようにになってきていることがわかる。
気になった点もある(^_^;)
本書184頁
一方、「怨親平等」という語は用いられないものの、敵味方関係なく供養するという
あり方は、すでに奈良時代から見られる。天平宝字八年(七六四)の藤原仲麻呂の乱の後、
称徳天皇は戦闘で亡くなった人々のために百万塔陀羅尼を建立して南都十大寺に
寄進したが、これは亡くなった人をおしなべて等しく供養し、冥福を祈るためであった。
「百万塔陀羅尼を建立して」は呆れた(+_+)「百万塔陀羅尼」は世界最古の印刷物の経文なのに
「建立して」とは!「日本古代・中世信仰史」が専門の著者が建造物と思い込んでるんだ(^_^;)
また「百万塔」は陀羅尼を納める小さな塔で、両手で持てるサイズだし、「建立」は変だろ(^_^;)
細野不二彦の漫画『ギャラリーフェイク』の「東方の三国士[後編]」の回にも出てくるよ(^^)
本書23~36頁
「魂の行方」と題し、亡くなった後の「霊魂の行き着く先」として、天上他界観(本書23頁)、
山中他界観・山上他界観(本書26頁)、海上他界観(本書31頁)、墓地(本書34頁)が紹介
されていて興味深い。ただ、例えば、加地伸行『儒教とは何か』(中公新書,1990)17頁にも
出てくる儒教の〈魂は天へ昇り、魄は地へ帰る〉の日本への影響の有無も知りたかった(^_^;)
本書152頁
非業の死を遂げた天皇に対して「徳」の字のつく諡号を付すことによって、
鎮魂がはかられた。こうしたありかたは、崇徳・安徳・顕徳(後鳥羽)・順徳といった
この時期怨霊と化した天皇に対して共通して施された対応である。
これに対し、佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫,1974)173頁には、
都を離れて遠国でなくなった天皇には、崇徳・安徳・顕徳(後鳥羽のこと)・順徳などと
徳の字を諡号につけるのがならわしだったが、このばあい[後醍醐]は例外とされた。
とあり、後醍醐も「徳」の字のつく諡号が検討されたように書かれている。ところが、
本書176~177頁は、後醍醐天皇の怨霊で「さまざまな悪い出来事が起こり、疫病が広まって
苦しむ人が多く、直義も病に冒され、身心が衰弱した」ため、都の人々も怨霊を噂したので、
「後醍醐天皇怨霊鎮魂のために、尊氏・直義の発願により、夢窓疎石が開山となって天龍寺が
創建され、・・・」たとあるだけで、諡号の話は出てこないのは何故かしら(^_^;) ちなみに、
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2002)の
133~134頁によると、天龍寺は最初は「暦応寺」だったけど、年号を寺号とする特権は
延暦寺のみと衆徒が抗議して(また勅願寺とならないよう強訴も)、天龍寺となった由(-_-)
淳仁天皇は淡路国だけど「都を離れて遠国でなくなった」し「非業の死を遂げた」ようなのに、
「徳」の字がついてないので不思議に思ったが、調べると明治に諡号は追贈された由(^_^;)
本書173頁
・・・後鳥羽院の怨霊を参考に『保元物語』で崇徳院[1164年没]の荒ぶる姿が描かれた
のだろう。
まえがきⅱにも同旨。本書の結論の1つだろうが、本書145~148頁に詳述されている。
その本書145頁では、
・・・讃岐において実際は極楽往生を願って亡くなった崇徳院が、なぜ『保元物語』などでは
恐ろしい姿で五部大乗経に祟る旨を記すといったような話が作られていったのだろうか。
その背景には、『保元物語』がまとめられた一二三〇年代に大きな社会問題となっていた
後鳥羽院怨霊の問題があったからに違いない。
として、本書148頁は次のように結論づける。
『保元物語』が作成されたのは、このような後鳥羽院の怨霊が跳梁している時期
であったので、これをもとに崇徳院怨霊の「虚像」が創造されたのではないだろうか。
でも、続く本書148~150頁は、「虚像」ではなく〈実像〉があったように読める(^_^;)
[三条実房 (1147~1225) の日記の]『愚昧記』安元三年(一一七七)五月十三日条
からは、安元三年の前年つまり安元二年から崇徳の怨霊が意識されていたことがわかる。
・・・後白河天皇周辺の人物や、頼長と敵対した忠通に関連する人物が相次いで亡くなった
ことに後白河天皇は大変衝撃を受けたであろう。こうしたことがきっかけとなって
崇徳院の怨霊が意識されることになったと思われる。そして、怨霊の存在を決定づけたのが、
安元三年のできごと[神人らの射殺や太郎焼亡と呼ばれる大火災]だった。
「後白河天皇」とあるが、当時は高倉天皇で、「後白河法皇」のミス(本書19頁に「・・・
文暦二年・・・将軍源頼経が疱瘡にかかった・・・」も「藤原頼経」のミスなどなど・・・
本書の人名はチョーいい加減)はさておくとして、本書151頁は次のように読み解いている。
こうした崇徳院怨霊の存在を語っていったのは藤原教長であったようである。教長は
崇徳天皇のもとで蔵人として活躍し、・・・保元の乱の際には崇徳方に与し、・・・
保元の乱で崇徳側に与した人々の間で、崇徳の復権、さらには自らの復権を行うために、
怨霊の存在を語っていったのではないだろうか。ちょうどそのとき社会は不安定で、
その原因を何かに求めたいという状況であった。
藤原教長による崇徳院怨霊の「虚像」創造だったとしても、後鳥羽院怨霊はどこへ(^_^;)
本書91~92頁
明治を迎えると天皇中心の国家のもと、忠臣としての道真が強調されるようになった。/
・・・大宰府に流されても延喜帝のことを恨みに思わず、帝から賜ったお召し物を
捧げ持って、毎日残り香をかぎながら恩恵を思い起こしているとの内容が注目され、
楠木正成や和気清麻呂とともに忠臣の鑑として祭り上げられた。
関幸彦『蘇る中世の英雄たち~「武威の来歴」を問う』(中公新書,1998)のⅡ章は、
「道真と将門~敗者の復活」と題して、道真と将門の両怨霊伝説を取り上げていて、内容的に
本書の第三章「善神へ転化した菅原道真」と第四章「関東で猛威をふるう平将門」と重なるが、
同書は本書の参考文献には挙げられてない(-_-) 本書読了後、未読の同書を読み始めたが、
メチャ深いっ! 本書の読後感は色褪せ、その内容も薄っぺらく感じてしまったほど(^_^;)
上記引用箇所(本書91~92頁)で述べられたことは同書のⅤ章「伝説の記憶~歴史観の祖型」
の179~187頁でも指摘されてるが、本書とは違って、もっと緻密に論じられていた(^_^;)
先ず同書182~183頁は、「承久の乱」と「南北朝の動乱」を手がかりに考察する。
近代明治は王政復古の理念のなかで武家を否定する。否定されなかった武家とは王権を
歴史上で支えた人々だった。結論をいえば、承久の乱なり南北朝の動乱なりで、
後鳥羽上皇側や後醍醐天皇側に参じた武士が顕彰されている。明治の国家は中世のある
時代の場面を積極的に掘り起こすことで、これを近代のなかに接ぎ木しようとした。
伝説の着色のされ方という点では、これほど鮮明に加工された時代はないのかもしれない。
・・・中世において王権の中枢が明確な意志にもとづき、〝武の否定〟にかかわった
という意味で、二つの乱は共通していた。
そして同書は明治37年(1904年)の教科書の国定制への移行に着目する。同書181頁に曰く、
・・・「国定」の意味である。国家が教科書著作に関与し、その使用を強制するものと
規定できるだろう。使用の強制性がポイントだ。それゆえにこそひとしなみに、
〝一定の歴史観〟の受容を可能にさせるのだ。その歴史観の共有が「国民」を作り出す
ことにもつながった。歴史という民族の記憶を継承する行為のなかには、時として
作為が加わり、伝説が史実のように闊歩することさえある。
同書は、明治末期の『小学日本史』(第一期)から戦後の『くにのあゆみ』(第七期)までの
七期に区分される小学校段階の国定の歴史教科書の中で、大正期に用いられた第三期の国定
教科書『尋常小学国史』あたりが、ターニングポイントと指摘している(同書183頁)。曰く、
この第三期の国定教科書において「承久の乱」ではなく「承久の変」という語が初めて使用され、
北条義時は筆誅の対象とされ、足利尊氏への論調も厳しさを増した、と(同書183~185頁)。
そして、同書185頁は、
国民的歴史観の定立のうえで、義時や尊氏とは対極に位置した人物もいた。いわば
国家のお気に入りの人物たちだ。この第三期の国定教科書の人物評でいえば、
和気清麻呂、菅原道真、源義家あたりの記述ぶりが参考となるはずだ。
として、この3人について論じた上で、同書187頁は、
右に指摘した三人はこの第三期にはじめて登場するものではなく、以前の明治期の教科書に
もあらわれる。が、その叙述のされ方は先に示したように、露骨なデフォルメはなかった。
こんな感じで同書の分析は緻密で、本書の大雑把さとはあまりに対照的だった(^_^;)
人名は不正確だし、歴史叙述も雑なことの他に、本書の全体を通して気になった点といえば、
怨霊の事例紹介が簡潔すぎることかな(^_^;) 一例を挙げると、本書55~56頁に、
また、『古事談』巻第二「朝成望大納言為生霊事」には、次のような話がある。一条伊尹と
朝成が官職をめぐって争っていたとき、朝成は伊尹に裏切られたことにより職に就けず、
大変怒った。そのため伊尹が病気となって亡くなったことを、朝成の生霊のためであろうと
記している。
そもそも、この書き方だと藤原朝成が〈一条朝成〉になってしまうし、藤原伊尹は〈一条摂政〉
とは呼ばれたが「一条伊尹」ではない(`^´ ) この朝成と伊尹の話は微妙な違いはあれど
大鏡や十訓抄などにも載っていて有名だけど、こんな要約では知らない人には事実関係すら
イミフだろうし、この話の面白さも伝わらんよ(+_+) 購入・再読する価値まではないね(^_^;)
『鼻紙写楽』堪能したが(「漫棚通信」の評にも同感)、キャラの顔が神江里見化してた(^_^;)
[追記]
関の同書Ⅳ章「為朝と義経~異域の射程」では、曲亭馬琴『椿説弓張月』は、崇徳院の怨霊が
重要な構成要素で、為朝の子孫による日本国と琉球国の統一という構想を導くことを詳説(^^)
文藝春秋編『エッセイで楽しむ日本の歴史』上(文春文庫,1997)に面白い2篇あり(^^)
1つは、井沢元彦「「日本一の大魔王」崇徳上皇の怨念」で、
実は、日本の明治維新は崇徳院の「承認」のもとに行なわれた。
とし(同書448頁)、明治天皇が正式な即位前に讃岐にある崇徳院の白峯御陵に勅使を派遣し、
院の命日に宣命(勅語)を読み上げさせ、その翌日に即位の礼を行なったこと、崇徳院の霊が
京都に帰還した翌々日に「明治」と改元したことといった面白い事実経過の符合を指摘(^_^;)
もう1つは、嶋津与志「琉球・為朝伝説はなぜ生まれたか」で、
一般に知られる為朝の琉球渡来説は、曲亭馬琴の『椿説弓張月』(一八〇七)があまりに
派手な武勇伝に描いたためにかえって真実味をそこないがちだが、沖縄においては王府の
正史の劈頭に堂々と登場する重要人物が為朝であり、これを単なる絵空事と笑いとばす
わけにもいかない事情がある。
というのだから驚き(同書454~455頁)。「薩摩支配下の現実を受け止め、薩摩(ヤマト)への
同化を推進する」ことで人心の安定を図ろうとし、「薩摩の支配そのものを正当化し容認」する
ための「日琉同祖論」を用いたのが羽地朝秀(尚象賢)だった由。彼は「摂政就任以前に著した
『中山世鑑』でも、為朝を琉球王朝の初祖にまつりあげることによって、琉球と薩摩とは
もともと清和源氏の流れをくむ同族であったという論理をひきだし」(同書456頁)、この説が
『中山世譜』や『球陽』にも踏襲されていったとのこと(^_^;) 大変勉強になりましたm(__)m
[追記160721]
森銑三『偉人暦』下(中公文庫,1996)「七月二十一日 島津義弘」の項からメモ(同書320頁)^_^;
しかも更に義弘の美しい精神を永久に、しかも世界的に語っているのは、彼が朝鮮から
帰朝後高野山に建立した、怨親平等の供養碑だ。・・・朝鮮役に於て戦死を遂げた
敵味方の悉皆成仏を祈願している。
なお、「前後六年に亙った朝鮮在陣中」にも、清書が出来ると本国の近衛公へ送って見てもらって、
その直しを朝鮮へ送り返してもらい、「書を習うのを怠らなかった」という「義弘の美しい精神」(^^)
手頃な分量で啓蒙的に概説してくれる新書らしい内容で勉強になったのが、
山田雄司『怨霊とは何か~菅原道真・平将門・崇徳院』(中公新書,2014)。
怨霊に興味はないが(枕元の奇談の本には怨霊の話も含まれてるけど)、
副題の人名に惹かれて読んでみたら、勉強になることもあって、
読んで損はしなかった本だった(^^)
個人的に勉強になった点をノートしておく(^^)
本書178頁
禅宗においては本来は霊魂の存在は否定され、ましてや怨霊は「幻妄」であったが、
室町時代には禅宗が鎮魂の主流であった。そして、怨霊という思想よりも、
怨親平等という考え方に則って鎮魂を行うというあり方が
次第に大勢を占めるようになっていった。
本書179頁
戦国時代を境に神観念は大きく転換した。さまざまな現象の背後に神意の存在を感じ、
さらなる災異が起きないよう神をなだめるという国家による神々への対応は行われなく
なった。それと対照的に、豊臣秀吉、徳川家康といった国家の主導者に神号を与えて
神として祀り、以降傑出した人物が神として祀られる先鞭となった。この現象は、
相対的に神の地位が下がることにより人が神となることができるようになるのとともに、
神に対する崇敬心が希薄になったことを意味しよう。
本書183~184頁
それではここで、怨霊の考え方と密接な関係にある「怨親平等」思想について見てみたい。
中村元『佛教語大辞典』(東京書籍、一九八一年)には「怨親平等」について、
「敵も味方もともに平等であるという立場から、敵味方の幽魂を弔うこと。・・・
日本では戦闘による敵味方一切の人畜の犠牲者を供養する碑を建てるなど、
敵味方一視同仁の意味で使用される。」と説明している。/「怨親平等」という語は、
五世紀に漢訳された『過去現在因果経』にすでに登場しているが、ここでは、
すべての衆生に対して、[仏法を]信じているか信じていないかにかかわらず平等に
施しを与えよという意味で使われている。・・・/一方、「怨親平等」という語は
用いられないものの、敵味方関係なく供養するというあり方は、すでに奈良時代から
見られる。[ex.仲麻呂の乱後の百万塔陀羅尼]
本書185頁
そして、天暦元年(九四七)三月二十八日に朱雀上皇は延暦寺講堂で承平・天慶の乱に
おける戦没者のための千僧供養を行っているが、藤原師輔が奉じた願文の中に、「官軍に
在りといへども、逆党に在りといへども、既に率土と云ふ、誰か王民に非ざらん。勝利を
怨親に混じて、以て抜済(救済すること)を平等に頒たんと欲ふ」(『本朝文粋』)
という文言がある。ここには王土王民思想が見られ、王土である日本に住む人は
逆賊であってもみな天皇の民である王民だとしている。そしてさらに、亡くなれば
官軍・逆党すなわち親・怨の区別もなく、平等に苦しみからの救済がもたらされる
とのことを祈願していることから、「怨」「親」の語句を用いて、戦闘で亡くなった
後には敵も味方もなく成仏するよう祈願するようにになってきていることがわかる。
気になった点もある(^_^;)
本書184頁
一方、「怨親平等」という語は用いられないものの、敵味方関係なく供養するという
あり方は、すでに奈良時代から見られる。天平宝字八年(七六四)の藤原仲麻呂の乱の後、
称徳天皇は戦闘で亡くなった人々のために百万塔陀羅尼を建立して南都十大寺に
寄進したが、これは亡くなった人をおしなべて等しく供養し、冥福を祈るためであった。
「百万塔陀羅尼を建立して」は呆れた(+_+)「百万塔陀羅尼」は世界最古の印刷物の経文なのに
「建立して」とは!「日本古代・中世信仰史」が専門の著者が建造物と思い込んでるんだ(^_^;)
また「百万塔」は陀羅尼を納める小さな塔で、両手で持てるサイズだし、「建立」は変だろ(^_^;)
細野不二彦の漫画『ギャラリーフェイク』の「東方の三国士[後編]」の回にも出てくるよ(^^)
本書23~36頁
「魂の行方」と題し、亡くなった後の「霊魂の行き着く先」として、天上他界観(本書23頁)、
山中他界観・山上他界観(本書26頁)、海上他界観(本書31頁)、墓地(本書34頁)が紹介
されていて興味深い。ただ、例えば、加地伸行『儒教とは何か』(中公新書,1990)17頁にも
出てくる儒教の〈魂は天へ昇り、魄は地へ帰る〉の日本への影響の有無も知りたかった(^_^;)
本書152頁
非業の死を遂げた天皇に対して「徳」の字のつく諡号を付すことによって、
鎮魂がはかられた。こうしたありかたは、崇徳・安徳・顕徳(後鳥羽)・順徳といった
この時期怨霊と化した天皇に対して共通して施された対応である。
これに対し、佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫,1974)173頁には、
都を離れて遠国でなくなった天皇には、崇徳・安徳・顕徳(後鳥羽のこと)・順徳などと
徳の字を諡号につけるのがならわしだったが、このばあい[後醍醐]は例外とされた。
とあり、後醍醐も「徳」の字のつく諡号が検討されたように書かれている。ところが、
本書176~177頁は、後醍醐天皇の怨霊で「さまざまな悪い出来事が起こり、疫病が広まって
苦しむ人が多く、直義も病に冒され、身心が衰弱した」ため、都の人々も怨霊を噂したので、
「後醍醐天皇怨霊鎮魂のために、尊氏・直義の発願により、夢窓疎石が開山となって天龍寺が
創建され、・・・」たとあるだけで、諡号の話は出てこないのは何故かしら(^_^;) ちなみに、
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2002)の
133~134頁によると、天龍寺は最初は「暦応寺」だったけど、年号を寺号とする特権は
延暦寺のみと衆徒が抗議して(また勅願寺とならないよう強訴も)、天龍寺となった由(-_-)
淳仁天皇は淡路国だけど「都を離れて遠国でなくなった」し「非業の死を遂げた」ようなのに、
「徳」の字がついてないので不思議に思ったが、調べると明治に諡号は追贈された由(^_^;)
本書173頁
・・・後鳥羽院の怨霊を参考に『保元物語』で崇徳院[1164年没]の荒ぶる姿が描かれた
のだろう。
まえがきⅱにも同旨。本書の結論の1つだろうが、本書145~148頁に詳述されている。
その本書145頁では、
・・・讃岐において実際は極楽往生を願って亡くなった崇徳院が、なぜ『保元物語』などでは
恐ろしい姿で五部大乗経に祟る旨を記すといったような話が作られていったのだろうか。
その背景には、『保元物語』がまとめられた一二三〇年代に大きな社会問題となっていた
後鳥羽院怨霊の問題があったからに違いない。
として、本書148頁は次のように結論づける。
『保元物語』が作成されたのは、このような後鳥羽院の怨霊が跳梁している時期
であったので、これをもとに崇徳院怨霊の「虚像」が創造されたのではないだろうか。
でも、続く本書148~150頁は、「虚像」ではなく〈実像〉があったように読める(^_^;)
[三条実房 (1147~1225) の日記の]『愚昧記』安元三年(一一七七)五月十三日条
からは、安元三年の前年つまり安元二年から崇徳の怨霊が意識されていたことがわかる。
・・・後白河天皇周辺の人物や、頼長と敵対した忠通に関連する人物が相次いで亡くなった
ことに後白河天皇は大変衝撃を受けたであろう。こうしたことがきっかけとなって
崇徳院の怨霊が意識されることになったと思われる。そして、怨霊の存在を決定づけたのが、
安元三年のできごと[神人らの射殺や太郎焼亡と呼ばれる大火災]だった。
「後白河天皇」とあるが、当時は高倉天皇で、「後白河法皇」のミス(本書19頁に「・・・
文暦二年・・・将軍源頼経が疱瘡にかかった・・・」も「藤原頼経」のミスなどなど・・・
本書の人名はチョーいい加減)はさておくとして、本書151頁は次のように読み解いている。
こうした崇徳院怨霊の存在を語っていったのは藤原教長であったようである。教長は
崇徳天皇のもとで蔵人として活躍し、・・・保元の乱の際には崇徳方に与し、・・・
保元の乱で崇徳側に与した人々の間で、崇徳の復権、さらには自らの復権を行うために、
怨霊の存在を語っていったのではないだろうか。ちょうどそのとき社会は不安定で、
その原因を何かに求めたいという状況であった。
藤原教長による崇徳院怨霊の「虚像」創造だったとしても、後鳥羽院怨霊はどこへ(^_^;)
本書91~92頁
明治を迎えると天皇中心の国家のもと、忠臣としての道真が強調されるようになった。/
・・・大宰府に流されても延喜帝のことを恨みに思わず、帝から賜ったお召し物を
捧げ持って、毎日残り香をかぎながら恩恵を思い起こしているとの内容が注目され、
楠木正成や和気清麻呂とともに忠臣の鑑として祭り上げられた。
関幸彦『蘇る中世の英雄たち~「武威の来歴」を問う』(中公新書,1998)のⅡ章は、
「道真と将門~敗者の復活」と題して、道真と将門の両怨霊伝説を取り上げていて、内容的に
本書の第三章「善神へ転化した菅原道真」と第四章「関東で猛威をふるう平将門」と重なるが、
同書は本書の参考文献には挙げられてない(-_-) 本書読了後、未読の同書を読み始めたが、
メチャ深いっ! 本書の読後感は色褪せ、その内容も薄っぺらく感じてしまったほど(^_^;)
上記引用箇所(本書91~92頁)で述べられたことは同書のⅤ章「伝説の記憶~歴史観の祖型」
の179~187頁でも指摘されてるが、本書とは違って、もっと緻密に論じられていた(^_^;)
先ず同書182~183頁は、「承久の乱」と「南北朝の動乱」を手がかりに考察する。
近代明治は王政復古の理念のなかで武家を否定する。否定されなかった武家とは王権を
歴史上で支えた人々だった。結論をいえば、承久の乱なり南北朝の動乱なりで、
後鳥羽上皇側や後醍醐天皇側に参じた武士が顕彰されている。明治の国家は中世のある
時代の場面を積極的に掘り起こすことで、これを近代のなかに接ぎ木しようとした。
伝説の着色のされ方という点では、これほど鮮明に加工された時代はないのかもしれない。
・・・中世において王権の中枢が明確な意志にもとづき、〝武の否定〟にかかわった
という意味で、二つの乱は共通していた。
そして同書は明治37年(1904年)の教科書の国定制への移行に着目する。同書181頁に曰く、
・・・「国定」の意味である。国家が教科書著作に関与し、その使用を強制するものと
規定できるだろう。使用の強制性がポイントだ。それゆえにこそひとしなみに、
〝一定の歴史観〟の受容を可能にさせるのだ。その歴史観の共有が「国民」を作り出す
ことにもつながった。歴史という民族の記憶を継承する行為のなかには、時として
作為が加わり、伝説が史実のように闊歩することさえある。
同書は、明治末期の『小学日本史』(第一期)から戦後の『くにのあゆみ』(第七期)までの
七期に区分される小学校段階の国定の歴史教科書の中で、大正期に用いられた第三期の国定
教科書『尋常小学国史』あたりが、ターニングポイントと指摘している(同書183頁)。曰く、
この第三期の国定教科書において「承久の乱」ではなく「承久の変」という語が初めて使用され、
北条義時は筆誅の対象とされ、足利尊氏への論調も厳しさを増した、と(同書183~185頁)。
そして、同書185頁は、
国民的歴史観の定立のうえで、義時や尊氏とは対極に位置した人物もいた。いわば
国家のお気に入りの人物たちだ。この第三期の国定教科書の人物評でいえば、
和気清麻呂、菅原道真、源義家あたりの記述ぶりが参考となるはずだ。
として、この3人について論じた上で、同書187頁は、
右に指摘した三人はこの第三期にはじめて登場するものではなく、以前の明治期の教科書に
もあらわれる。が、その叙述のされ方は先に示したように、露骨なデフォルメはなかった。
こんな感じで同書の分析は緻密で、本書の大雑把さとはあまりに対照的だった(^_^;)
人名は不正確だし、歴史叙述も雑なことの他に、本書の全体を通して気になった点といえば、
怨霊の事例紹介が簡潔すぎることかな(^_^;) 一例を挙げると、本書55~56頁に、
また、『古事談』巻第二「朝成望大納言為生霊事」には、次のような話がある。一条伊尹と
朝成が官職をめぐって争っていたとき、朝成は伊尹に裏切られたことにより職に就けず、
大変怒った。そのため伊尹が病気となって亡くなったことを、朝成の生霊のためであろうと
記している。
そもそも、この書き方だと藤原朝成が〈一条朝成〉になってしまうし、藤原伊尹は〈一条摂政〉
とは呼ばれたが「一条伊尹」ではない(`^´ ) この朝成と伊尹の話は微妙な違いはあれど
大鏡や十訓抄などにも載っていて有名だけど、こんな要約では知らない人には事実関係すら
イミフだろうし、この話の面白さも伝わらんよ(+_+) 購入・再読する価値まではないね(^_^;)
『鼻紙写楽』堪能したが(「漫棚通信」の評にも同感)、キャラの顔が神江里見化してた(^_^;)
[追記]
関の同書Ⅳ章「為朝と義経~異域の射程」では、曲亭馬琴『椿説弓張月』は、崇徳院の怨霊が
重要な構成要素で、為朝の子孫による日本国と琉球国の統一という構想を導くことを詳説(^^)
文藝春秋編『エッセイで楽しむ日本の歴史』上(文春文庫,1997)に面白い2篇あり(^^)
1つは、井沢元彦「「日本一の大魔王」崇徳上皇の怨念」で、
実は、日本の明治維新は崇徳院の「承認」のもとに行なわれた。
とし(同書448頁)、明治天皇が正式な即位前に讃岐にある崇徳院の白峯御陵に勅使を派遣し、
院の命日に宣命(勅語)を読み上げさせ、その翌日に即位の礼を行なったこと、崇徳院の霊が
京都に帰還した翌々日に「明治」と改元したことといった面白い事実経過の符合を指摘(^_^;)
もう1つは、嶋津与志「琉球・為朝伝説はなぜ生まれたか」で、
一般に知られる為朝の琉球渡来説は、曲亭馬琴の『椿説弓張月』(一八〇七)があまりに
派手な武勇伝に描いたためにかえって真実味をそこないがちだが、沖縄においては王府の
正史の劈頭に堂々と登場する重要人物が為朝であり、これを単なる絵空事と笑いとばす
わけにもいかない事情がある。
というのだから驚き(同書454~455頁)。「薩摩支配下の現実を受け止め、薩摩(ヤマト)への
同化を推進する」ことで人心の安定を図ろうとし、「薩摩の支配そのものを正当化し容認」する
ための「日琉同祖論」を用いたのが羽地朝秀(尚象賢)だった由。彼は「摂政就任以前に著した
『中山世鑑』でも、為朝を琉球王朝の初祖にまつりあげることによって、琉球と薩摩とは
もともと清和源氏の流れをくむ同族であったという論理をひきだし」(同書456頁)、この説が
『中山世譜』や『球陽』にも踏襲されていったとのこと(^_^;) 大変勉強になりましたm(__)m
[追記160721]
森銑三『偉人暦』下(中公文庫,1996)「七月二十一日 島津義弘」の項からメモ(同書320頁)^_^;
しかも更に義弘の美しい精神を永久に、しかも世界的に語っているのは、彼が朝鮮から
帰朝後高野山に建立した、怨親平等の供養碑だ。・・・朝鮮役に於て戦死を遂げた
敵味方の悉皆成仏を祈願している。
なお、「前後六年に亙った朝鮮在陣中」にも、清書が出来ると本国の近衛公へ送って見てもらって、
その直しを朝鮮へ送り返してもらい、「書を習うのを怠らなかった」という「義弘の美しい精神」(^^)
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