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倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』

自分のブログへのアクセス数に一喜一憂しているような人
には福音となるだろうし、推論も一転して慎重になり良かったのが、
倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ,2013)。

同『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書,2013)を2015年6月16日に取り上げた際は、
本書は読み始めたばかりで少ししか言及できなかった。本書を読了し、現代新書や
同『藤原道長の権力と欲望~「御堂関白記」を読む』(文春新書,2013)と比べて、  
著者の結論が少し異なっているのが分かり、どうやら著者の考えが揺らいでいるのも
垣間見えたので、ここに取り上げることにした(^^)

先ず全体的な感想を述べると、本書は現代新書よりも面白かった(^^)
前二書とは異なり、例えば、道長の伝記的事実などを詳しく紹介するよりも、
『御堂関白記』そのものを丁寧に読み解くことがメインだったからだろう。
本書の特色は、著者が「はじめに」(本書6頁)で次のように述べている。

  どうしたら『御堂関白記』の原文に触れる機会のない方にも、その魅力とすごさを、
  わかりやすく、しかも学問的な意義も持たせて、世間に伝えればよいのか、
  思いついた方法が、『御堂関白記』の原本写真を撮影して、翻刻文(原文)と現代語訳、
  そして解説を並べてみたらどうかという試みであった。

この「試み」のおかげで、著者が『御堂関白記』を丁寧に読み解いていく作業からは、
読み手としてはまるで名医の手術を傍らで見学しているような臨場感で、
非常にスリリングな知的興奮を味わえた(^^) 著者が『御堂関白記』から感じた
面白さや謎も追体験できて良かった(^^)

現代新書や文春新書を読んでも分かりづらかった『御堂関白記』の歴史的意義だが、
本書「はじめに」4~5頁にユネスコへの推薦書の関連部分が転載されていて、
『御堂関白記』の特徴が箇条書きに纏められているので明解だった(^^)

『御堂関白記』『小右記』『権記』の三者 or 二者の記述が揃う月を示した一覧表、
『御堂関白記』の記録状況(記録率と一日平均字数)を示すグラフなどが、
本書243、244頁に載っていて、そこから何かインスパイアされそうで良いね(^^)

「著者は藤原道長と御堂関白記に入れ込み過ぎたために、筆が滑っちゃった」らしき箇所が、
2015年6月16日に指摘した点以外にもあったけど、
著者の論述は総じて慎重になっていた(^_^;)

んで、以下は気になった点(^_^;)

本書28頁

  権大納言に過ぎなかった道長を執政者とするには、関白に任じるわけにはいかず、
  そこに内覧という地位が二十三年ぶりに復活したのである。

この叙述が間違っていることは既に論証したので省略(^^)

本書71頁

  ところが『御堂関白記』は、よほど長い記事以外は、記憶のみを基にして、
  しかもしばしば何日分かの記事をいっぺんに記しているのではないかと思えてくる。

道長の記憶力に対する著者の評価が、現代新書において変遷・矛盾してることは指摘したが、
これを読むと道長の記憶力の問題は重要な論点だったと(改めて)思ったね(^_^;)
なお、道長が「まとめて何日分かを記した」ことは本書254頁でも指摘されている。

本書92頁

  ということは、日付の間違いに気付いた時には訂正しているとはいっても、
  間違いのままの記事も多数存在するのではないかとの恐れもある。

おいおい(^_^;)
『御堂関白記』『小右記』『権記』の記述が揃う月を示した一覧表が役立ちそう(^^)

本書241頁(文春新書13~14頁には最後の一文がない)

  また、何故に日記を書いたかという問題とは別に、何故に日記が残ったかという問題も
  存在する。これは私の専門分野から離れるのであるが、何故日記が残ったのかは、
  先祖の日記を保存しつづけた「家」の存在と、記録=文化=権力であるという、
  日本文化や日本国家の根幹に通じる問題に関わっているのであろう。日本の日記はまさに、
  個人や家の秘記ではなく、同時代や後世の貴族社会に広く共有された政治・文化現象
  だったのである。

佐藤優が紹介する官界の文化(2015年5月19日に言及)へと連綿と続いてるのかもなぁ~と、
この件からインスパイアされた(^^)

本書224頁

  『御堂関白記』には、三月二十一日の出家の記事も、七月からはじまった阿弥陀堂
  (後の法成寺)造営の記事も、記されていない。三月十七日条までは、これまでと
  変わらない記述を記しているのであるから、やはり出家に際して、深く期すところが
  あったのであろう。またこれは、『御堂関白記』という日記の性格を考えるうえでも、
  大きなヒントとなるものである。

ここは敷衍してほしかった(^_^;)

本書119~120頁

  また、褾紙見返には、つぎのような書き付けがある。/件記等非可披露、早可破却者也、
  (件の記等、披露すべきに非ず。早く破却すべき者なり。)/これはどう見ても、
  道長自身による書き付けと考えなければならない。道長はこの日記を、
  後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身のための備忘録(特に賜禄や出席者)
  として認識していたという、確かな証左となる。この点、記主の存生時から
  貴族社会の共有財産として認識されていた『小右記』や『権記』など
  一般的な古記録とは、決定的に異なる。

この件は前二書でも同旨で、『御堂関白記』は他の公家の日記とは「決定的に異なる」と
著者は強調し、『御堂関白記』は「自分自身のための備忘録」であると結論づけている。
これに対し、畏れ多くも小生は(『御堂関白記』を読んでもいないのにね)、
疑問(『御堂関白記』はやはり「子孫のための記録」では?)を呈したわけだが、
その根拠などは2015年6月16日に詳述したので省略する(^^)
ところが、本書はこの後に次の一文が続いていた(^_^;)

本書120頁

  この書き付けが元はすべての具注暦の褾紙に記されていたのか、はたまた、
  この書き付けがある寛弘七年暦巻上だけが褾紙を施されずに原形態のままで残されたのか、
  それはわからない。

これって著者の前記結論の根本を揺るがしかねないよね(^_^;)
でも研究者らしい実に慎重かつ丁寧な推論の進め方で良かった(^^)

本書168頁

  『御堂関白記』は長和三年(一〇一四)の記事をまったく欠いている。眼病を患った
  三条天皇に対し、道長が退位を要求したこの年の記事は、早くから失われているよう
  である。『入道殿御暦目録』には、「(長和)三年、本より欠か。目録に載せず」と
  あるが、もしかしたら、道長自身の手によって「破却」されたのかもしれない。

そうだとすると、残っている巻は「道長自身の手によって『破却』され」なかった、
つまり、道長には「破却」の意志は無かったことになって、前記結論は維持できるのか(^_^;)
本書を読み進めながら、著者の考えが揺らいでいるように感じられたが、
その予感は本書終章に来ると、当たっていたことが分かった(^^)

本書247頁

  すでに述べたように、道長は『小右記』や『権記』など、他の一般的な古記録と異なり、
  自分の日記を他人や後世の人びとに見せることを想定していなかった。寛弘七年暦巻上の
  褾紙見返に、/件の記等、披露すべきに非ず。早く破却すべき者なり。/という
  道長自身による書き付けがあるのが、道長の認識をよく示している。道長はこの日記を、
  後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身、せいぜい直系の摂関のための備忘録
  として認識していたのであろう。文字の乱雑さや文体の破格さ、抹消のいい加減さは、
  すべてこの点から説明できる。/そしてわざわざ、紙背に裏書として特別に記録した
  儀式や法会への出欠、賜禄や引出物の明細、表の記載とは別の場面こそが、
  道長が意識的に、あるいは無意識的に記録して後年(後世ではない)に
  参考にしようとした項目なのではあるまいか。

これは本書終章の本書結論部分だが、前記結論から微妙に修正されているのが分かる(^_^;)
すなわち、今まで著者が主張してきた「自分自身・・・のための備忘録」だけでなく、
「せいぜい直系の摂関のための備忘録」と本書終章では付け加えている(^_^;)
他の公家の日記と同様に『御堂関白記』も「子孫のための備忘録」ではないかとする
「素人の僻論」にも三分の理ぐらいはあったということかな(^_^;)
ただ、この「せいぜい」とか「後年(後世ではない)」という件に、
これ以上は絶対に後退しないぞっ!という頑なに自説を死守しようとする
著者の研究者魂を垣間見ることができるね(^_^;)

さて、著者は道長の『御堂関白記』執筆の動機を次のように述べていた。

文春新書149頁

  元来が自己の主宰する儀式への出欠を非常に気にする道長ではあったが(これが
  『御堂関白記』執筆の主たる動機であったと、私は考えている)、・・・

この著者の考えは本書でも変わらなかったようで、次のように述べている。

本書247~248頁

  自分の主宰した儀式に誰それが出席し(逆に誰それが欠席し)、どの身分の者に何を
  どれだけ下賜したか。これこそが、道長が後年にまで記録しておくべき出来事と
  認識していたのであろう。それは儀式の式次第を精確に記録し、それを集積すること
  によって自己の家の存立基盤としようとした実資や、政務や儀式の詳細な記録とともに
  「王権の秘事」を記録しておくことによって子孫に有利な政治条件を作り出そうとした
  行成とは、決定的に異なる、まさに王者の日記なのである。/しかし考えてみれば、
  儀式にどれだけの人を集められるか、その人たちに何を与えるかは、政治の根本
  でもある。天才的な政治家である道長は、それを鋭敏に察知していたのであろう。 

「儀式にどれだけの人を集められるか、その人たちに何を与えるか」ということと、
それらを事細かく日記につけることとは、それこそ「決定的に異なる」と思うのだが(..)
誰が来たか来なかったか、誰に何をあげたかを「非常に気にする」人が「王者」ねぇ(^_^;)
それなら自分のブログへのアクセス数やnice!の数に一喜一憂してる人も「王者」かも(^_^;)

本書245頁

  それに何より、自分に都合の悪いこと、怖いこと、どうでもいいことは、
  記録しないことが多いのである。

「自分に都合の悪いこと・・・は、記録しない・・・」、心が狭くても「王者」なのね(^_^;)

「王者」という言葉の持つイメージが変わったけど、道長が身近に感じられたかな(^_^;)

予約してた『へうげもの』⑳が届いた(^^)
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