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倉本一宏『藤原道長の日常生活』

道長は藤原紀香の類いかよっ!読了して最終頁をめくった
瞬間に呆れて思わず口から洩れた台詞(`^´)紀香様には失礼m(__)m それは、
倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書,2013)を読み終えた時のこと。

本文と「おわりに」を読み終え、巻末の年譜、略系図、関係地図、平安宮内裏図、主要参考文献と
一通り眺めてから最終頁をめくり、奥付にある書名の漢字部分の振り仮名を見て呆れた(*_*)

  ふじわらみちなが

アホですな(^_^;)
担当編集者のうっかりチェックミスかと思いきや、講談社BООK倶楽部のHPにも、

  フジワラミチナガノニチジョウセイカツ

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062881968

「の」が入ることをマジで知らない真正馬鹿でした(-_-)
ちなみに、姓と名字の違いは、2003年に同じ講談社現代新書から出た
岡野友彦『源氏と日本国王』がメチャ分かり易く説明してたのに読んでないんだね(;_;)
豊臣秀吉も「とよとみのひでよし」と読むべきなのかとか勉強になるのに(^^)

著者による歴史叙述は平明で読み易く勉強になるので、その著作は読むようにしてる(^^)
でも、似た書名のが次々出され、小生は何を読んだか読んでないかの記憶があやふやなので、
以下に昔の手帳の記録から既読分を読了順にメモっておくことにする(+_+)
この著者のは誤って再読しても損はないし、新たな〈発見〉もあるだろうけどね(^_^;)

『奈良朝の政変劇~皇親たちの悲劇』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,1998)
『持統女帝と皇位継承』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2009)
『藤原道長の権力と欲望~「御堂関白記」を読む』(文春新書,2013)
『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書,2013)

発行年月日的には、講談社現代新書(3/20)の方が文春新書(5/20)より早い。
んで、今ちょうど読み始めたのは、

『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ,2013)
『摂関政治と王朝貴族』(吉川弘文館,2000)

選書メチエは12/10発行。同じ原稿を使い回している件があるね(..)

先に気になった点を、3つほど挙げておく(^_^;)

本書12頁

  疫病が蔓延した長徳元年(九九五)の四月十日に道隆、五月八日に関白を継いでいた道兼が
  薨去した結果、三十歳の道長は五月十一日に内覧に命じられ、いきなり政権の座に就いた。
  内覧というのは関白に准じる職で、・・・円融朝の兼通(道長の父兼家の兄)以来
  二十三年ぶりに復活したこの職に就けられたのである。

文春新書41頁と講談社選書メチエ28頁も、道長が就いた内覧は「二十三年ぶりに復活」と記す。

  権大納言に過ぎなかった道長を執政者とするには、関白に任じるわけにはいかず、
  そこに内覧という地位が二十三年ぶりに復活したのである。

平安時代の歴史をフツーに知ってりゃスルーできない記述(-_-) 本書の主要参考文献に挙がる
土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973)68頁を引くと、

  かれ[道長の兄の道隆]は二月ごろから病気で、関白を子の内大臣伊周に譲ろうとしたが、
  天皇はなかなか許さず、三月九日に至って、関白道隆の病中に限り、伊周に内覧の宣旨が
  下った。

つまり、内覧なら兼通の後は道長の直前に伊周が就いてて、「二十三年ぶりに復活」どころか、
ほんの1ヶ月ぶりに復活したポストである(伊周への内覧宣旨なら「二十三年ぶりに復活」)。
そんな40年以上も前の古い本じゃあねぇ、と言われそうなので、同じく主要参考文献に載ってる
山中裕『藤原道長(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,2008)12頁を見ると、

  ・・・伊周は、道隆が亡くなるほぼ一ヵ月前の三月八日に、
  「関白病の間、殿上及び百官施行」の宣旨(内覧の宣旨)を蒙っている。

朧谷寿『藤原道長~男は妻がらなり(ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房,2007)65頁も

  伊周に内覧(関白に準ずる職)の宣旨が下ったのは翌日のことであるが、・・・

そもそも著者自身が前掲書『摂関政治と王朝貴族』収録の論考「藤原伊周の栄光と没落」で、

  結局、「関白の病の間」という限定付きで、伊周に内覧宣旨が下ったのである。

と同書194頁で明記し(そこに至る迄の興味深い駆け引きも同193~194頁は詳述)、同書所収
の別の論考でも同様の記述が散見される(例えば、同書52頁、102頁表11、107頁。ただし、
同書13頁表4は「内覧代行」としてて意味不明だが)。著者はどうかしちゃったのかしら(;_;)

著者は藤原道長と御堂関白記に入れ込み過ぎたために、筆が滑っちゃったんだろうね(^_^;)
でも同業者に献本されてそうなのに、選書メチエ校了までに誰も教えてあげなかったのかな(..)
指摘しても感謝されず恥をかいたと逆恨みする研究者もいるから指摘しない方が無難か(^_^;)

次に、日記の史料的価値を考える上で、その記主の記憶力は重要なポイントとなるはずだが、
道長の記憶力に対する著者の評価が変遷てゆーか矛盾してる点は流石に気になった(^_^;)

本書38頁

  この長和二年には、道長は四十八歳になっている。この年齢になると、
  忘れっぽくなることは、誰しも経験するところであろう。

本書40頁

  忘れっぽくなるということを先ほど挙げたが、そういえば古記録には、
  道長がいろいろなことを忘れたという記載も、しばしば記されている。/
  有名なのは寛弘八年(一〇一一)、一条天皇の崩御に関わることで、・・・

本書41頁

  しかしこれらは、道長が故意に忘れたのではないであろう。道長はもともと、忘れっぽい人
  なのである。長和二年(一〇一三)七月十日におこなわれた皇女禎子の五夜の産養では、・・・

本書95頁

  道長の記憶力のよさがうかがえる例もある。寛弘五年四月十六日、賀茂斎院御禊が・・・

結局のとこ、道長は加齢で「忘れっぽくな」ったの?それとも「もともと、忘れっぽい」の?
その一方で「記憶力のよさがうかがえる例もある」とするのは、恣意的じゃないかしら(^_^;)

道長の人間性についての「単純に一言で言い表わすことのできない、複雑な多面性を持った
人物であった」(本書271頁。本書44頁も同旨)との結論は本書の丁寧な叙述から納得したけど、
記憶力も「複雑な多面性」に含むのかな(^_^;) ここはちょっと書き散らしてるよね(;_;)

第3点は、公家の日記が、子孫がその立場になった時の参考になるよう公事(政務や儀式)を
中心に記録したものであることは公知の事実だが(土田前掲書227頁、文春新書12~13頁)、
道長の御堂関白記はそのような他の公家の日記とは異なるという著者の指摘について(^_^;)

本書18~19頁(文春新書18~19頁や選書メチエ119~120頁もほぼ同文)

  ・・・寛弘七年暦巻上のみが、装丁が当時のままのものであるが、道長はこの褾紙の
  見返しに、「件の記等、披露すべきに非ず。早く破却すべき者なり」と書きつけている。/
  道長は自己の日記を、後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身のための備忘録
  (特に賜禄や出席者)として認識していたという、たしかな証左である。この点、記主の
  存生時から貴族社会の共有財産として認識されていた[藤原実資の]『小右記』や
  [藤原行成の]『権記』など一般的な古記録とは、決定的に異なるのである。  

つまり、道長の御堂関白記は子孫のための記録ではなく「自分自身のための備忘録」である由。
でも、この「たしかな証左」自体が子孫に読まれることを前提としてると思うのだが・・・(^_^;)
また道長は記事を「書き替えたり抹消したりし」ているそうだが(本書22頁)、日記そのものを
「破却」させるつもりなら、個々の記事の「書き替え」「抹消」は不要なんじゃないかな(^_^;)
「備忘録」的に必要だと言うなら、上記の道長の記憶力の問題が密接に関連してくるよね(..)

著者は本書22頁で「自分自身のための備忘録」とする別の根拠を次のように述べる。

  なお、よく道長の字は汚く、『御堂関白記』の文体も破格であると言われる。しかし、
  道長は自己の日記を他人に見せることを想定して記しているわけではなく、自身の備忘録の
  ようなつもりで記していたのである。・・・金峯山に奉納した経筒や経巻の字もまた、
  道長の書いたものとされるが、それはたしかに達筆と称することができる字である。

「字は汚」いのと「達筆」、どちらが道長の素(or 複雑な多面性!?)なのかは措く(^_^;)
子孫は「他人」か? 子孫(ミウチ?)は道長の悪筆・破格の文体にも慣れ親しんでるのでは?
「金峯山に奉納した経筒や経巻」なら「他人」以上の崇高な存在に対し祈りながら慎重・丁寧に
書くのは当然かと(^_^;) そもそも、悪筆だから「自分自身のための備忘録」である、とするのは
短絡的で、能書家しか子孫のための日記を書く資格がないことになってしまうじゃん(^_^;)
でも、自らの子孫のために日記「明月記」を残した藤原定家を能書家とは言わないぞ(^_^;)
「京都千年のタイムカプセル 冷泉家のひみつ」を特集した芸術新潮2009年11月号63頁は、

  俊成や定家の字は、現在でも一般的な解説書では、奇癖の書だとか奇怪な表現だとか、
  要するに悪書の扱い。

石川九楊は続けて「しかし、・・・」と弁護するんだけど、定家の字の世評はこの通り(^_^;)

小生には御堂関白記も他の公家の日記と同様に子孫のための記録と解した方が自然と思われ、
実際それを裏書するような状況証拠も、既に著者によって示されていると思われる(^_^;)
推論の前提として公家の日記の目的・機能を規定する当時の状況を本書67頁で押さえよう。

  先例を重視する儀式運営が当時の政治の主眼であった・・・しかし、道長の時代は、いまだ
  儀式の基準が確立されていたわけではなく、各人がそれぞれの父祖や自己の日記から事例を
  引勘してきて、それをそれぞれ「先例」として重視しているという状況であった。「御堂流」
  などと呼ばれる規範が確立するのは後世の話である。  

まさに「基準を作成しようとしている時期なのであ」(本書64頁)り、九条流や小野宮流などの
「家による儀式の流派も、発生しかかっていた」(本書69頁)由。そのような状況下において、
政権を担っていた道長はどうしたであろうか? 本書70頁で著者は次のように断言している。

  道長は儀式の確立に積極的に関わっていた。

となれば、御堂関白記の目的も、以下の事実&著者の解釈から導き出せるのではないか?

文春新書16頁

  道長は政権を獲得した長徳元年から日記を始め、・・・

文春新書76頁

  長保五年になると、嫡男の頼通が元服し、寛弘元年(一〇〇四)に春日祭勅使として奈良に
  下向するなど、ようやく「後継者」がその歩みを始めた。道長が三年半ぶりに日記を記し
  始めたのも、それが契機となっているものと考えられる。

文春新書79頁

  さて、二月二十日、道長嫡男で十二歳の頼通が元服し、二女で十歳の妍子が着裳の儀を
  行なった。これで頼通は宮廷社会にデビューし、妍子はいずれ東宮居貞親王の妃となること
  が視野に入ってきたことになる。頼通は即日、正五位下に叙されて禁色(身分による服色や
  文様・服地の規制)と東宮殿上を聴され(『権記』)、この年のうちに侍従・右少将に
  任じられている。/道長としても、自分の権力を次世代に伝える展望が開き、そして次代の
  天皇にも自分の女をキサキとするという目標ができたことになる。
  
御堂関白記を政権を獲得した年から書き始めたこと、また頼通が元服し「自分の権力を次世代に
伝える展望が開」いた年に再び書き始めたこと、ともに日記の目的を物語っていないだろうか?

以上は素人の僻論だが、「御堂関白記について」と題した節で山中前掲書227頁も述べている。

  儀式については、『西宮記』などの儀式書と同じように儀式次第をそのまま詳細に書いてある
  ところも多いが、ただ儀式次第を詳細に述べるのではなく、いわゆる九条流の儀式作法の実態
  を書き残そうという意欲が顕著で、「御堂流」と称すべき儀式作法を考えることも出来るので
  ある(竹内理三氏『律令制と貴族政権2』御茶の水書房)。

前述のような同時代の状況において、なぜ公家の代表格である道長だけが、公家の日記たるや
斯くあるべしというパラダイムの拘束から自由たりえたのか、それを合理的に説明するものが
本書にはなく、アプリオリに道長や御堂関白記を特別視してしまっている印象がある(^_^;)
やはり著者は道長や御堂関白記に入れ込み過ぎちゃったんじゃないかしら(^_^;) 恋は盲目?

最後に、本書に対する総評だが、学ぶことが多くて非常に勉強になったのは事実なんだけど、
正直それほど面白くはなかった、というのが小生の個人的な感想(+_+) 残念なことにね(;_;)

本書は藤原道長をめぐるトリビア事典のようで、何かを調べる際に参照するには便利そうだが、
例えばの話、藤原道長の評伝を読みたいのなら、文春新書の方が生き生きと描かれていたし、
御堂関白記の世界史的意義を知りたいのなら、選書メチエの「はじめに」が要領よく纏めている。
本書は広く色々と盛り込もうとしたためか、紹介されているエピソードも「さわり」ばかりで、
読んでて味気なかった(^_^;) 本書で取り上げられている項目、そこで紹介されている内容は、
紙幅さえあれば、著者なら読み手にもっと面白く感じさせるものが書けたと思うので残念(;_;)

加えて、例えば、本書197~216頁の殺人、闘乱、凌礫・打擲、うわなり打ち等の事例ならば、
繁田信一『殴り合う貴族たち』(角川文庫,2008)が事実関係を詳述してて面白かったしなぁ、
本書62~63、136~137頁の神鏡焼損は渡邊大門『奪われた「三種の神器」~皇位継承の
中世史』(講談社現代新書,2009)に出てたなぁ、本書34、192、244頁の死後も悪霊として道長
一族を苦しめた「悪霊左府」藤原顕光と二女延子のことは渡辺実『大鏡の人びと~行動する一族』
(中公新書,1987)がヴィヴィッドな描写でホラーだよねぇ(本書5頁で断ってるように大鏡などの
歴史物語や説話集を本書は用いなかったから仕方ないけど)、本書249頁の道長の糖尿病なら
たしか篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった~肖像画29枚のカルテ』(新潮新書,2003)には
「この世をば」と詠んだ時には糖尿病性網膜症で目が見えなかったと書かれてたっけ(本書
244頁も道長の眼病を言及はしてる)・・・などなど既に他の本で読んでいた話も多かったために
本書の面白さは半減し、その叙述の味気なさをヨリ感じてしまったこともあったけどね(^_^;)
喩えて言うと、各巻が440~490頁と超ヴォリュームのあるA・デュマ『モンテ=クリスト伯』
(講談社文庫,1974~1975)全5巻を完読後に薄~い一冊に纏められた児童向けダイジェスト版
を読むと、たとえソレがどんなに工夫されてても、イマイチにしか感じられないのと同じ(^_^;)

デュマの『ダルタニャン物語』(講談社文庫,1975)全11巻は有名な第一部「三銃士」よりも
「二十年後」(同3~5巻)や鉄仮面も登場する「ブラジュロンヌ子爵」(同6~11巻)の方が
面白いのに、児童向けのは「三銃士」だけだよね(._.) その面白さは、高校の授業中も耽読して
いつのまにか先生が横に立ってたのにも気付かなかったほど(^_^;) でも、その現国の先生は、
同書表紙を確認しただけで小生を注意することもなく教卓の方へ戻って行っちゃったけどね(^^)

話を戻すと、本書33頁も「悪霊左府」こと藤原顕光を「無能の大臣」と当時の世評同様に厳しく
断じているけど(なお、このような評価を覆す最近の異説の存在をwikiは紹介してる)、前掲書
『摂関政治と王朝貴族』収録の論考「摂関期の政務と儀式」では逆に弁護してて興味深いね(^^)
同論考の初出は「平安遷都千二百年記念 王朝貴族のホットな生活」特集の芸術新潮1994年
4月号掲載なので読み比べると、この件にはユーモラスな一文が補筆されてることに気付く(^^)
商業誌より学術書で笑いを取りに行く著者はやっぱ好きだな(^^) それだけに本書は残念(;_;)

『鼻紙写楽』が早く届かないかしら(^^)

[追記]

2015年6月24日に倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』も取り上げた(^_^;)

 ⇒ http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-06-24

[追記190601]

倉本一宏は『藤原行成「権記」(下)』講談社学術文庫「おわりに」でも昔と違うこと書いてる(-"-)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-26

[追記160130]

繁田信一『殴り合う貴族たち』について、

 ⇒ http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23

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