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柴田武(監修)武藤康史(編)『明解物語』

本書を出した三省堂はマジ偉い(^^)よほど懐が深いのか
はたまた何か後ろめたいものがあったのかもしれないけど^^;
佐々木健一『辞書になった男~ケンボー先生と山田先生』(文藝春秋,2014)と共に借りた
柴田武(監修)武藤康史(編)『明解物語』(三省堂,2001)。
本書こそ売れるべきだし賞を与えられるべきじゃないか(-_-)

新明解国語辞典と三省堂国語辞典の各関係者に対する
武藤のインタビューによって、巷間噂されていた
山田忠雄・新明解と見坊豪紀・三国の対立に関する貴重な証言を引き出した上に、
両辞典の出版元である三省堂にとっては好ましくないと思われる
情報や事実まで明らかにしてるんだからね。

・印税の問題(柴田256頁[印税配分に関し金田一春彦277頁])、
・例の新明解初版序文「見坊に事故あり」も
 「会社としては『ちょっと困る』と言ったみたいですけども」(三上幸子359頁)、
 それでも山田は直さなかったこと(確信犯だった!?)。
・採集してなくて用例のなかった山田が、
 見坊の集めた三国のための用例を見たいと言い、三省堂側が見せると、
 山田は三国が出る前に新明解に使ってしまい、見せたことを後で知った
 見坊が三省堂に対し文句を言ったこと(三上359~360頁)
・山田と長澤規矩也と河村重治郎(英語)が「三省堂にとっておっかない先生」
 (三上362頁)だったこと

・・・などなどゴシップ好きにはたまらない内容テンコ盛りの
本書を出版した三省堂の英断には敬意を表するしかないm(__)m
ただ、佐々木前掲書43頁によると、「社内では出版に対して異論もあり、
あのような内容は公にするべきではなかったという意見もあった」由。

とまれ、数々の歴史的証言を引き出した武藤にも敬意m(__)m
武藤の学識と人柄はそれだけ関係者から信頼されていたのでしょう(^^)

武藤の名を初めて覚えたのは、マリ・クレール誌の読書特集。
そのセンスとユーモアに溢れた文章と選書に魅了されたからだ。
安原顯プロデュースの同誌特集の多くは後に文庫化されたので
(全て「ぼくらはカルチャー探偵団」編として角川文庫に収録)、
武藤による当該「ノン・ジャンルのラヴ・ロマンス(外国篇)ベスト50」も
『恋愛小説の快楽~ブックガイド・ベスト600』(1990)に収録されている。

本書386~387頁でもその一部が引用されているが、
武藤は「ラヴ・ロマンス(日本篇)ベスト50」(『新・読書の快楽
~ブックガイド・ベスト500』[1989]所収)の前説は(同書48頁)、
山田忠雄、新明解、恋愛の語釈(の初案)から筆を起こし選書方針としていた。
赤瀬川源平『新解さんの謎』(文藝春秋)が出たのは1996年だからね。
二番煎じ(新解さんの謎)や柳の下の二匹目の泥鰌(辞書になった男)に
おいしいところだけ持って行かれてしまい気の毒(;_;)

新明解の語釈&用例の面白さに気付いてた人は他にもいたけどね。
管見によれば、呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫,1987)は、
新明解の有名な「おやがめ」の項目を紹介(同書232~233頁)し、
「一番個性的(すぎる)な国語辞典」と評価している(同書235頁)。
ただ単行本(情報センター出版局,1982)にも出ていたかは不明。

武藤執筆の本書第Ⅰ章「『明解』系国語辞書六十年小史」142~146頁は
新明解や三国に「言及した文献をわずかばかり振り返ってみたい」とするが、
呉前掲書は出てないし、また見坊の著書も引き、広辞苑などの大きな辞書と
収録用例を具体的に比較した上で、三国のことを評価していた
百目鬼恭三郎『読書人読むべし』(新潮社,1984)219、222~223頁も漏れてる。
まぁ、この手の遺漏は避けられないものだけどね(^_^;)

なお、「『明解』系国語辞書六十年小史」には次のような件がある(本書19頁)。

  『辞苑』の版権を[博文館から]買い取り、増補して出したのが
  昭和三十年刊の『広辞苑』だが・・・もともと『新辞苑』という書名が
  予定されていたことが当時の新村出の書簡からわかるが、刊行直前に
  『広辞苑』と変更された。『広辞林』とあまりに似ているので
  三省堂は岩波書店を訴えている(両者が和解して決着したが、
  その内容は公表されていない)。

これに対し、柳田国男や金田一京助の嫌~なところも淡々と回想する名著、
岡茂雄『本屋風情』(中公文庫,1983)の「『広辞苑』の生まれるまで」には、
次のような話が載っている(同書146~147頁)。

  ・・・『辞苑』という書名は、なるべくお使いにならないようにと
  [新村出先生に]進言した。・・・結局私の希望は容れられず、
  『広辞苑』と名付けられることになったのである。/果たして後日この問題で、
  岩波書店と博文館の間に係争が起こった。そして岩波書店の顧問弁護士
  正木亮氏らに頼まれて、私は法廷の証人台に立つことになった。

この話は本書には出てこない。三省堂には無関係な話だからかな。
でも、博文館、岩波書店、三省堂による三つ巴の争い、「辞書三国志」だな(^_^;)

さて、個人的に気になった点があります。

味岡善子339頁

  ・・・まだ国立国語研究所に籍がおありのころに、北海道と九州に出張の旅を
  なさいまして、そこで地方の新聞をたくさんお買いになりました。
  それに印をつけていらっしゃいまして・・・

見坊の用例採集(ワードハンティング)の凄さはよく語られているが、
地域的偏り(東京中心)があったのでは? 方言周圏論は・・・など考えさせられた。
    
金田一280頁

  私は、好きなものといいと思うものが一致しないで困るんです。
  私はかなづかいも昔のが好きなんです。今のかなづかいを見ると、
  乱れてるような気がするんです。しかし、今のかなづかいのほうが、
  日本のためにいいんだと、こう思っていますから、文部省の講演で、
  さかんに現代かなづかいを褒めるわけです。私と同じ気持ちなのは、
  池田弥三郎と林大。

土屋道雄『國語問題論爭史』(玉川大学出版部,2005年)305頁からの孫引きだけど、
金田一春彦は、文藝春秋1964年12月号に「日本語は乱れていない」を発表し、
1966年には『新日本語論』を出版して「この程度の乱れはことばの常である」から、
「この程度の乱れは「乱れ」として騒ぐにあたらず、というのが結論である」と
書いていたそうじゃないですか。ちょっと腑に落ちない発言です。

前掲『新・読書の快楽』257頁のライター紹介(安原)によると、
武藤は「すべての文章を旧字・旧カナで書」くという。たしかに
『活字中毒養成ギブス~ジャンル別文庫本ベスト500』(角川文庫,1988)所収の
武藤による「ノン・ジャンル・ベスト50」(同書204~205頁)では、
福田恆存『増補版・私の國語教室』中公文庫も選んでるから筋金入りだ。
金田一は聞き手の武藤に迎合して、こんな発言をしたのかしら?

高島俊男『お言葉ですが・・・⑦ 漢字語源の筋ちがい』(文春文庫,2006)197頁に

  金田一春彦先生も死にましたね。
  世に害毒を流すことの多い時局迎合型の人であった。

と追記されていたのを思い出し、ちょっと邪推してみただけです。

さて、最後が本書の(小生から見た)ハイライトです。

見坊203頁

 [武藤] 山田[忠雄]先生は[『明解国語辞典』の]表音式の見出しのこととか、
      そういう編集方針についての意見というのはなかったんでしょうか?

  見坊  そういう話し合いをしたことはないと思います。すべて私が決めて、
      こういう方針でやっているからというやり方だったと思いますね。

 [武藤] 山田孝雄博士[忠雄の父]からしますと、
      不興を買いそうな編集方針かもしれませんが。

  見坊  いやあ、国語学者というのは案外進歩的なところがありますので、
      表音式なんか、むしろいいと思うんじゃないかな。

これにはマジで吃驚仰天!!!
見坊の学識を疑わせる妄言でしょう(素人が失礼m(__)m)。

山田孝雄といえば、橋本進吉と並んで大正・昭和の国語学界の双璧。
その学問的業績は、小生は専門外のド素人なので全く知りませんが、
表音式の仮名遣いに改めようとする文部省の案に反対し続けたこと、
その際に森鷗外の遺志も披露したことは有名で素人でも知ってます。

うまく纏めてる文献が見つけられなかったので、
wiki(「仮名遣い」「現代仮名遣い」)を引きます(^_^;)

[仮名遣い]

  大正13年(1924年)、臨時国語調査会の総会において、
  表音式の「仮名遣改定案」が可決された。・・・
  しかし山田孝雄や芥川龍之介、与謝野晶子、橋本進吉などの反対論があり、
  日の目を見なかった。

なお、芥川は山田の論を斯くの如く評してた由(土屋前掲書154頁から孫引き)。

  山田氏の痛擊たる、尋常一様の痛擊にあらず。その當に破るべきを破って寸毫の遺憾
  を止めざるは殆どサムソンの指動いてペリシテのマッチ箱のつぶるるに似たり

[現代仮名遣い]

  大正10年(1921年)になって新たに臨時国語調査会が設けられる(後の国語審議会は
  臨時国語調査会を継ぐもの)。調査会は「当用漢字」や「現代かなづかい」に
  似たものを大正13年(1924年)12月24日に満場一致で可決している。

  対して山田孝雄は大正14年(1925年)2月にこのことに反対する論を書き上げた。
  鷗外はこの時の国語調査会の会長であったが、大正11年(1922年)6月に辞職した。
  鷗外は危篤(大正11年 (1922年) 7月9日死去)に際して、再三濱野知三郎を通じ
  山田と面会しようとした。山田の私用でかなわなかったが、7月8日になって
  鷗外の危篤と遺志が伝えられる。約1箇月前、6月上旬の辞職前にも山田と濱野は
  面会しており、そのときは「同問題の將來をいたく憂慮し、慷慨淋漓たるものあり、
  終に旨を濱野に含めて不肖に傳へらるる所ありき」とのことであった。
  臨終に際しての鷗外の苦心、憂慮を取り上げ、山田は以下のような文面で
  調査会を非難した。「森博士の名にかりて私見を逞くせむの卑劣なる考あらむや。
  ただ同博士の生死の際に國語問題に非常なる憂慮を費やされしその誠意は
  後進たる余が責務として何の時かこれを世に公に傳へおかざるべからざる責任を
  深く感ずる」。以上は「森林太郎博士苦心の事」によるが、これは假名遣意見と
  同じ明星に掲載された。

  この掲載を受けて、芥川龍之介・藤村作・美濃部達吉・松尾捨治郎・高田保馬・
  本間久雄・木下杢太郎などにより次々と反対論が発表され、国語問題は社会問題と
  なった。このようにしてこの問題はついに帝国議会で取り上げられる運びとなり、
  再びの議員の反対を受けて、戦前における表音的仮名遣の論は表舞台から消える
  こととなった。表音主義が再び台頭するのは戦後になってからである。

なお、土屋前掲書150頁に出ていた

  ・・・森鷗外は、大正十一年七月九日「自分は日本文化の將来については
  些かの懸念もない。ただ假名遣を變へようとする運動があることだけが
  氣がかりでならない」といふ悲痛な言葉を遺して世を去つた。

この言葉の出典が分かりませんでした(^_^;)

とまれ、以上の如く、見坊発言が間違ってることは明白でしょう。

2015年5月8日に紹介した千葉茂の名言通り、見坊の発言はまさに歴史を曲げようとしてる(`´)

さて、学識もあり、仮名遣いにこだわりを持つ武藤なればこそ、
上記の質問をしたはず。それなのに何故か見坊の仰天発言には殊更反応を示さず、

  先生は山田孝雄博士とはご面識はおありになりませんでしたか。

と質問を続けています。ここは食い下がってでも、その真意を訊くべきでした。

  空気が悪くなるとしても、引かないところは絶対引くな

吉田豪『聞き出す力』(日本文芸社,2014)20頁も書いてるじゃんっ!

このままじゃ後世の人から見坊の学識が疑われちゃうよ(;_;)

[追記]
2015年5月31日に佐々木健一『辞書になった男~ケンボー先生と山田先生』も取り上げた(^_^;)
http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-05-31

山田孝雄「の学問的業績は、小生は専門外のド素人なので全く知りませんが」と書いたが、
坂本太郎『史書を読む』(中公文庫,1987→3版1992)121頁の

  『平家物語』を学問的に取り扱おうとするならば、この本に多数の異本が存在する
  という事実から出発しなければならぬ。異本の研究に先鞭をつけたのは、
  山田孝雄博士であって、・・・

という件には、付箋も貼っていたのに、読了から何年も経って、すっかり失念していた(+_+)
wikiの「山田孝雄」「平家物語」の両項にも記されてなかったので、一応メモっておく(^^)

『広辞苑』(岩波書店)の前身が『辞苑』(博文館)であることなんて常識かと思ってたら、
その事実を隠して新村出・猛親子の苦労・奮闘を描いた番組を、NHKが放映してトラブルに
なっていたことを、wikiの「プロジェクトX~挑戦者たち~」の項で初めて知った(^_^;)

山田孝雄一家による日本古典文学大系『今昔物語集』に関して、次の記事で言及した(^^)
http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-12-02

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