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半藤一利ほか『「昭和天皇実録」の謎を解く』

天皇とスージーの出会いを取り上げてほしかったし、
半藤の暴走など望蜀の不満もあるが勉強になった、
半藤一利、保阪正康、御厨貴、磯田道史による
対談&鼎談を収録した『「昭和天皇実録」の謎を
解く』(文春新書,2015)。借りて、読了した。

この実録の編纂方法・姿勢・チェックすべき点
(84~91,139,207,214,270~275頁)は参考になる。

幼少期が初めて明かされ(磯田16頁,保阪45頁)、磯田32~33頁曰く、

  幼少期のご様子から、後に天皇になられてからの行動の意味
  がわかることはいくつもあります。・・・これは、ある程度の手続きを
  踏まねば自分の意思は通ることはないという場面を、たくさん
  経験させられたことでもあります。/このことは、後の戦争指導
  の際に、あくまで手続きを重視し、臣下に自分の意思を押し付ける
  ようなことをしなかった姿勢を生み出したのではないでしょうか。

なるほど。他の個人的に気になった点をメモる。

・天皇の松岡評の見直しが必要?(36~37,132~139頁)
・「神殿の壁」論(磯田81~82頁)
・大東亜戦争理念=アジアの解放の嘘(半藤197~199頁)
・軍部が虚偽の戦果報告・上奏(204~207頁)
・長谷川清「海軍戦力査閲使」(223~226頁)

ただ、これらは実録の該当部分を紹介した上での指摘だが、
小生は実録全体を未読ゆえ、各解釈の妥当性判断は保留。
とりあえずは著者達を信頼して、ひたすら耳を傾けた。

半藤は本文では実録を完読したような口ぶり。しかし、
「はじめに」(9頁)では「関心のあるところを中心に、
可能な限り精読しました」と「斜め読み」を告白してて
知的誠実さは感じたが、今回ちょっと暴走しまくってた。

例えば天皇が満洲事変の一報を新聞号外で知ったと発言。
保阪を驚かせてたが、該当箇所は、当時の侍従武官長の
奈良武次が当日朝に自宅にて新聞の号外で事件の発生を
知った後で、奏上したということにすぎなくて(95頁)、
半藤は人が驚くのを楽しんでいる愉快犯みたいだわね。

更に「はじめに」11頁や291~292頁で天皇が「戦争中も
リンカーン像を居室に飾っていたという事実」を自慢げ
に語って、訪米中にリンカーン記念館で詠まれたという
「戦の最中も居間にほまれの高き君が像をかざりゐたりき」
という「この歌で、私の説も間違いではなかったと証明
されて、ほっとしました(笑)。」と述べてる(292頁)。

藤田尚徳『侍従長の回想』(中公文庫,1987)は本書でも
数回言及されているが、同書「録音盤争奪事件」の項に、

  やがて夜は白々と明けて八月十五日。真夏の夜明けの訪れは
  早い。・・・/やがて御召しによって御文庫書見室に出た。
  陛下の後にはリンカーンとダーウィンの像があった。
  朝の陽が二人の偉人像を白く照らしていた。

と記されてるのに(同書152~153頁)、「私の説」???

ただ、「はじめに」11~12頁では、「この像は外交官の
佐分利貞男から贈られたものと聞いていたものの、いま
まで疑心暗鬼でした。が、今度『実録』で間違いないと
確信しました。」とあるから、これを「私の説」と言い
たかったのかもしれないが、本文はそう読めませんぜ。

しかも佐分利に関して実録には天皇のフランス語教師に
任命、その後も何度か登場、変死後に勅使を派遣し供物を
下賜し功をたたえたとあることから、「・・・リンカーン像は、
教師時代の佐分利から贈られたものとするのは、決して暴論
ではないと考えます。」(「はじめに」12頁)と述べる。
でも、292頁の発言より、かなり後退してませんかね。

本書への望蜀の不満は昭和天皇を政治や軍事の観点から
しか語らず、そのお人柄の分かるエピソード等の紹介が
ないことである。幼少期のエピソードは出てる。でも、
青年期や成人後のはないし、また幼少期の話もあくまで
後の天皇・大元帥の原点として解釈の用に供するだけ。
もちろん政治史・軍事史の中での昭和天皇が最大の関心
なのは理解できるけど(その割に今回は常連かつ適役の
秦郁彦が参加していないのは何故?)、もっと多角的に
語られるべき価値が昭和天皇(実録)にはあるのでは?

知られざる、愛すべきお人柄を紹介してて話題になった
原武史『大正天皇』(朝日選書,2000)はその点で良いね。
この際だから同書で好きなエピソードをメモっておく。

  十九日は乃木希典の説明を聞きながら演習を見学、二十日も未明から
  武庫川付近で演習を見ていたが、六時半に休戦になると、皇太子は
  次の演習地である武庫郡甲東村(現・西宮市)の尋常高等小学校に行く途中、
  岡田山にあった学習院時代の旧友、桜井忠胤(一八八一~一九三一)の邸宅を
  突然訪れた。思わぬ出来事に、「今回は恐れ多き光栄を賜はり誠に恐縮に存じ
  奉つる」と言うのがやっとの桜井に対して、皇太子は「今度は軍人となつて
  来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにして呉れ、さう慇懃では困る」
  と言い、小学校までの距離を桜井に聞いた上、「夫れでは馬で行く」と言い
  残していったん立ち去った。/ところが、八時前になって皇太子は「桜井、
  演習は九時からだから其の間又遊びに来た」と言って再び現れた。そして
  邸内を勝手に歩きながら、「桜井、今日は恐惶だなどは一切よせよ、お前は
  学校に居る時、俺と鬼ごつこの相手でないか、今は此処に住んで何をして
  ゐるか、大層色が黒くなったではないか、子供は幾人あるか」などと語った
  あげく、「どうも騒がしたなア桜井、又来るよ」と言ってようやく桜井邸を
  後にした。このとき、時計の針はすでに九時を回ろうとしていたのである。
  完全な遅刻であった(以上、引用は『大阪朝日新聞』十一月二十一日による)。

同書175~176頁を書き写してても、ニヤニヤしちゃう。
大正天皇の周囲の人々は、ホント困っただろうけど。

実録の全巻刊行後に通読できるかは分からないけれど、
1956年4月20日の記述だけは拾い読みしたいものだ。
昭和天皇がスージーに出会った日なのだが、はたして
スージーのことは出てるだろうか?御感想などは出てないだろうか?

  スージーの乗る自転車は特製であった。・・・スージーはこの特製の
  赤い自転車で、住まいの類人猿舎とステージの間を通っていた。
  ステージが終わっての帰り道には飼育事務所に立ち寄った。事務所で
  林寿郎飼育課長(後の園長)から一〇円玉を貰うと独りで近くの園内の
  売店に走り、一〇円玉を差し出す。売店の職員も心得ていて、スージーの
  注文の菓子と釣り銭を手渡す。それを持って事務所に戻り、釣り銭を
  山崎[太三]さんに渡してから、机の上に座り、菓子箱を開けた。
  事務所に飼育課長が不在のときは見渡して一番お金を持っていそうな人
  の前に来て手を差し出して、一〇円玉をねだった。/昭和三一(一九五六)
  年四月二〇日、上野動物園に天皇陛下(昭和天皇)が皇后陛下と
  ご一緒においでになられた。・・・ステージで陛下がポチとスージーの芸を
  見たあと、陛下のご一行と、カメラマンの一団が平行して移動する間を、
  山崎さんに頼んで自転車に乗ったスージーを走らせたのである。と、
  スージーは陛下の近くまでくると自転車を降りてどんどん陛下に近づいて
  行った。あわてて山崎さんが鎖をひいたが、スージーはそのまま陛下のそば
  まで行き、さっと手を出した。スージーにとっては、陛下が一番、お金を
  持っていそうに見えたのであろう。一瞬驚かれたご様子の陛下は、すぐに
  手を差し出され、にこやかにスージーと握手をされた。・・・その日の夕刊は、
  各社ともスージーと握手される陛下のお姿を大きく掲載した。

小森厚『もう一つの上野動物園史』(丸善ライブラリー,1997)
122~124頁だが、昭和天皇からはオーラが醸し出されていて
動物的直観で感じ取ったのだろうか?でも、お金をもらえず、
スージーも戸惑ったことだろう。

偶然だけど今日は昭和天皇の誕生日だったことに今気付いた。

後藤×御厨の対談は記憶で書いたから不正確だったorz
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