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和田芳恵『ひとつの文壇史』

和田芳恵『ひとつの文壇史』(講談社文芸文庫,2008)を、
坪内祐三が週刊文春連載「文庫本を狙え!」で
前に取り上げてたので、借りて読んだ。

読みにくく頭にすーっとは入ってこない文体だが、
意外にも面白く読ませるものだった。再読の価値あり。

204頁に出ていた体験談。
東條陸相夫人勝子が新潮社「日の出」編集部に
いきなり電話してきて、「落葉松」という詩を、
北原白秋本人に書いてもらい届けるようにとのこと。
近衛首相が同詩を気に入り屏風に仕立てたのを見たための由。

[追記]
秦郁彦『昭和史の軍人たち』(文春文庫,1987)は好著ゆえ何かと参照しているが、
その「東条英機~戦時下のカミソリ宰相」の章の半ば過ぎで(同書73頁)、

  東条の暗い面ばかりを並べ立てた嫌いもあろうが、戦時宰相として彼が〝私心〟なく
  精励した事実も認めないと公平を欠くことになろう。

として(ただ、同書70~71頁は、東条の甥の山田玉哉の「いい年をした陸軍少佐が総理官邸で、
[東条の妹である山田の伯母の留守宅で]たかが女中の手を握ったくらいの事で[不謹慎だと
怒って]呼び出されてなぐられた」という回想、その懲罰としてサイパンの戦場へ追放する人事
をしようとした話も紹介してて、こういうのも「〝私心〟なく精励」と言えるのかなぁ(^_^;))、
以下のように記している(同書74頁)。
  
  東条の個人生活における潔癖さも定評がある。小食だったせいもあるが、戦時中、誰もが
  ヤミで衣食を補っていた時に、東条家は配給物だけですませていた。到来する贈物もすべて
  送り返し、そこまでしなくても、と思うほど厳格だったという。/財産らしい財産も
  残さなかった。唯一の不動産はのちに自決失敗の場となる玉川の自宅だったが、建築資材の
  ヤミを許さなかったため、落成までに何年もかかった。首相の住居としては質素なもの
  だったが、隣の五島慶太邸とまちがえられ、新聞に〝豪邸〟と報道されたことがある。

「到来する贈物もすべて送り返し」たというが、和田芳恵が体験した東条英機夫人・勝子による
夫の権力・権威を笠にしたとしか思えない贈物強要の話はどうなるのかしら(^_^;)

勝子夫人に関しては、メチャ面白いけれど眉に唾つけて読まなければならない田中隆吉の本が
当然のことながらボロクソに書いてる(^_^;) 『日本軍閥暗闘史』(中公文庫,1988)157頁では

  東条氏の最大欠陥たる公私混淆癖に拍車をかけたものに夫人勝子氏がある。夫人は東条氏
  の権力の陰にかくれて、東条氏の行う人事にまで容喙した。東条氏に取り入らんがためには、
  まず勝子夫人に取り入れとは当時の軍政両界の常套語となっていた。終戦時の陸軍次官
  若松只一中将は私に対して、東条氏が国を誤れる一半の責任は夫人にあると嘆じた。勝子
  夫人には当時「東美齢」なる別名が奉られていたが、中国の宋美齢夫人は夫君とともに
  祖国を救い、日本の東美齢夫人は夫君とともに国を亡ぼした。

と断罪し、『敗因を衝く~軍閥専横の実相』(中公文庫,1988)58頁でも次の如く弾劾した。

  私は東条氏の公私の生活に最も禍をなし、その癌とも称すべきは夫人勝子氏であったと
  思う。勝子夫人は賢夫人の評はあったが、稀に見る出しゃ張りの女である。時としては
  人事にまでも嘴を入れる。感情の強い東条氏がさらに夫人の進言によって人事を行った
  としたなら、その結果が支離滅裂となる事は理の当然である。畑元帥と阿南大将はこれを
  東条の感情人事と罵倒した。また「要職に就かんとすればまず勝子夫人に取り入れ」とは
  当時の流行語であった。勝子夫人はまた東条氏の政治的最高幕僚をもって自任した。

田中は『敗因を衝く』59~60頁で、「しかり、勝子夫人は東条氏の最高の政治幕僚であった」
とし、自ら体験した「婦人会問題」への勝子夫人の介入を証言する。真偽不明だけどね(^_^;)
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