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安廷苑『細川ガラシャ』

掘り下げてなかったり誤りもあるけど、教わる点が多く
著者の推論も丁寧できめ細かい好著の部類だったのが、
安廷苑[アン・ジョンウォン]『細川ガラシャ~キリシタン史料から見た生涯』(中公新書,2014)。
借りて良かった。

細川ガラシャの受洗、離婚の意向、
自決(自殺)or 介錯(他殺)とキリスト教との相克、
キリスト教の婚姻、自殺、殉教などについての考え、
布教地の社会・文化との妥協(?)、
イエズス会(葡)とフランシスコ会(西)の布教方法の違い、対立
・・・などなど色々と勉強になりましたm(__)m

著者の推論も丁寧できめ細かくて良かった。
例えば、本書29~30、62、75、83頁など。

「上」[かみ:京都を中心とする地域]の布教長オルガンティーノは、
ガラシャと一度も会ったこともないが、人を介して、書簡を通じて、
精神的に交流し、バテレン追放令発布後も、ガラシャのために、
担当司祭として日本に潜伏しながら残ったことに感銘を受けた(;_;)

でも、以下に気になる点を挙げておく。

本書7頁

  同年[永禄四年]、越後国の長尾景虎は、小田原の北条氏を攻略し、
  関東管領職を継承し、上杉謙信と名乗った。

「北条氏を攻略し」・・・ですか?「攻略」まではしてないっしょ?例えば、
谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久~天下一統に翻弄された生涯』
(中公新書,1994)45頁は書いてます。

  結局、景虎は一ヶ月にわたって小田原城を包囲し、城下に放火しただけで、
  やがて囲みを解くと、閏三月、鎌倉鶴岡八幡宮の社前で関東管領襲職・
  上杉襲名の式を挙行し、上杉憲政の偏諱をうけて政虎と名乗った。ここに
  越後の国の国主長尾景虎は関東管領上杉政虎となったのである。

この「だけ」に注目でしょ。「攻略」なんて、とても、とても・・・(^_^;)
また「上杉謙信と名乗った」という点も誤りと分かるわな。

本書126頁

  ・・・熊本藩第四代藩主光尚・・・

細かいことだが、細川光尚は、細川家当主の代数としては第四代だけど
(藤孝が初代)、熊本藩主の代数としては第二代です(忠利が初代)。

本書3頁

  [味土野の記念碑に関して]・・・細川家が・・・建立したのである。


芸術新潮2007年10月号が「細川家 美と戦いの700年」という熊本城築城
400年記念特集を組んでいて、同誌59頁は当該記念碑を次のように説明。

  石碑は、昭和11年、地元の婦人会と女子青年団によって建てられた。

これだけでピーンと来るものがありますが、更に同誌62頁の記述を引くと、

  ・・・関ヶ原前夜、石田三成の人質要請を拒んでの死。こうした
  劇的にすぎる生涯は戦前においては彼女を貞婦・烈女の鑑として
  喧伝させ(昭和11年に建てられた味土野の記念碑[59頁]もその
  流れの上にある)、戦後はむしろ彼女の精神的苦悩に焦点をあてた
  小説や戯曲に材料を提供することになった。

建立した年と建立した団体に着目すれば、貞節な「銃後の妻」の鑑として、
細川ガラシャを顕彰しようとした動機は一目瞭然。現代政治学の父である
チャールズ・E・メリアム『政治権力~その構造と技術』(東大出版会,1973)
上巻147頁、152頁が言うところの「ミランダ」に当たるのでしょうね。

「最初の出発点は、どうしてガラシャが日本人にこんなにも愛されている
のかという疑問からであった」と「あとがき」(本書197頁)と書いている
著者も、味土野の記念碑を掘り下げてれば、上記視点にも気付けてたかも。

本書ⅲ頁(はしがき)

  ガラシャに関しては史料が限られており、彼女の歴史的記述を一変させる
  ような、新たな史料が出てくる可能性も高いとはいえない。

そうなんだ。でも「高いとはいえない」という根拠はあるのかしら?

本書138頁

  ガラシャの最期は、霜[侍女]にとって、生涯に一度あるかどうかの
  壮絶な大事件である。それを目の当たりにした記憶は、
  年老いてなお詳細に残っていたに違いない。

最近は心理学的には目撃証言の信用性は高くないようですよ。

ガラシャを島田陽子が演じた「黄金の日日」を全話視聴したい(^_^;)

[追記160312]

やはり本書25頁のこともメモしておこう^_^;

  イエズス会は、布教地における戦争には介入しないことを原則としていたが、戦国期に
  あった日本においてもその原則は通用していた。巡察師ヴァリニャーノは、一五八三年に
  執筆した「日本諸事要録」(第一次日本巡察の報告書)で、日本の戦に対するイエズス会
  の基本姿勢を述べている。彼は、教会が日本の戦争に介入することは布教事業の継続の
  ためには危険であると注意を喚起しているのである。/一方で、キリシタン大名の方では、
  イエズス会の背景にあるポルトガルの軍事力に期待する向きもなくはなかった。たとえば、
  肥前大村の領主大村純忠(一五三三~八七)が自領の長崎をイエズス会に寄進したのも、
  そうしておけば、長崎が他の大名から攻撃される危険性が少なくなると考えていたから
  であった。また、イエズス会の方でも、純忠相手の貿易品目に武器弾薬を加えるなど、
  実際には軍事には不介入という原則を貫いたとはいえないようである。

藤田達生『天下統一』(中公新書,2014)149~150頁によれば、

  事実、キリシタン大名大村純忠は、巡察師ヴァリニャーノが来日した翌年の天正八年に、
  長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。
  同年には、ヴァリニャーノが両所を軍事要塞化するように指示したため、大砲・鉄砲などの
  武器の配置、ポルトガル人に加えて長崎住民の武装兵士化が進められ、軍艦も建造配備
  された。まさしく、植民地化が開始されたのである。/近年の研究によると、庇護を
  受けていた九州の大村氏や有馬氏らキリシタン大名の軍事力に期待できないことを悟った
  日本イエズス会が、長崎の要塞化を通じて軍事的自立をめざしたことが指摘されている。

門外漢の悲しさで、「近年の研究」のことは全く知らないけれど、植民地化に関しては、
松田毅一も昔から書いてたわけだから、本書の叙述はちょっとナイーヴすぎないか^_^;
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