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松本清張『鷗外の婢』

松本清張『鷗外の婢』(新潮文庫,1974)を
思うところあり再読(09年8月初読)。

表題作は虚実の境界線が不分明なところが面白いのだが、
気になったのは、モデルが実在する清張作品もあるので
(石の骨→直良信夫、断碑→森本六爾、菊枕→杉田久女など)、
本作の浜村幸平のモデルをとりあえずネット検索してみた。

スカラベ・ヒロシ(坂口博)による掲示板「スカラベ広場Ⅱ」への
「松本清張のモラル」と題する09年7月28日付の投稿に曰く、
「少しでも文学全般に関心を持っているなら、誰が読んでも
野田宇太郎をモデルと判断できる」由。餅は餅屋で勉強になる。

浜村「の性向には清張自身を彷彿とさせるところが」云々と、
2014年の某紀要に書いておられる大学教授もヒットしたけど、
専門外のことを言及する前に最低限ネット検索せねばと自戒。

より気になったのは、本書所収の「書道教授」の方である。

15年1月に図書館から借りて読了し、得られるものが多かった
塘耕次『米芾~宋代マルチタレントの実像』(大修館書店,1999)は、
松本清張『球形の荒野』に関して「よく知られている王羲之や
顔真卿でなく、米芾をもってきたところに、清張氏の工夫と
玄人好みを感じさせる」と高く買っていた(同書はじめにiv)。

「書道教授」で主人公が書道を習う際の手本は蘭亭序で
「どこか王羲之の書風を思わせた」(本書31頁)のは自然な設定。

ただ、気になったのは本書70頁の次の件。

  手本としている「蘭亭序」も「長咸集此地有」とすすんだ。

蘭亭序の該当部分をその前後も含めて書き抜くと、

  ・・・羣賢畢至少長咸集此地有崇山峻領茂林脩竹・・・

14年9月に借りて読んだが、大変ためになったので先月購入した、
駒田信二『中国書人伝』(芸術新聞社,1985)の読み下し文(同16頁)だと、

  群賢畢く至り、少長咸集う。此の地、崇山峻領(嶺)にして、茂林脩竹あり。

〈老若みな集った〉という文意なのに「少」を削って「長咸集・・・」では、
蘭亭曲水の宴が老人会に。王献之ら王羲之の息子達も参加してるのにね。

石川九楊『現代作家100人の字』(新潮文庫,1998)は清張の書を批評後、
「書道教授」を取り上げ(あらすじを紹介し、ネタバレまでしてる!)、
同作品の書道関連部分についても厳しく評してはいるが(同44~46頁)、
「長咸集此地有」には触れてない。となると、書道では臨書の対象となる
古典作品はその文意を無視して好き勝手に切り刻んでも構わないのか?

河合克敏『とめはねっ!~鈴里高校書道部』(小学館,2007)の第一巻を
戯れにチェック。同212頁には九成宮醴泉銘を臨書した作品が掲載。

  終以文徳懐遠人東越青丘南踰丹儌皆

駒田前掲書69頁の読み下し文によれば、

  終に文徳を以て遠人を懐かしむ。東は青丘を越え、南は丹儌を踰え、皆・・・

最後の「皆」は次の文の冒頭なのにね。書道とはこんなもんか。がっかり。

なお、「書道教授」をネット検索していて、興味深い記事に遭遇。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/3578/kawakami.htm

新明解の「ぴたり」の用例に出てくる「川上」さんが発見された由。

もともと赤瀬川原平『新解さんの謎』(文春文庫,1999)31~32頁が
「この川上って誰なんでしょうか」と話題にしたことは同記事も
紹介している。この「ぴたり」の用例の文が「書道教授」にある
ことが発見されたわけで、たしかに本書161頁でその一文は確認。

同記事は「ほかにもあるかもしれませんね、松本清張。」と新明解の
「ぼさっと」の用例を紹介し「これなんか怪しいと思いませんか?」
云々と締めくくっているが、これは釣りなのか?なぜなら、まさに
「書道教授」(本書110~111頁)に当該用例の一文は発見できるのだ。

  ・・・警察はこの家に気がつかないのか。駅から花壇に出る四つ角には
  交番があるのだが、管内の出来事には鈍感な警官がぼさっと立って
  いるだけであった。・・・

書道教授の看板で人の出入りも訝しまれず、警察が気付くはずもない。
これを「公務員批判の一環」として、警察を批判するのは酷だろう。

なお、赤瀬川前掲書もこの用例は取り上げている(同88頁)。

  「これはもう文学ですね」
  「ぼさっと一言に、これだけの物語があらわれる」

[追記]
冒頭に列挙した実在モデルは、松本清張『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』
(新潮文庫,1965)巻末に載る、平野謙による「解説」(同書399頁)が指摘したものだが、
同書所収の「笛壺」に関しても、谷沢永一『紙つぶて(全)』(文春文庫,1986)142頁は、
「壇の浦合戦の勝因」と題する書評コラム(初出1971年9月9日)で次のように述べてた(^^)

  黒板勝美は戦前の日本史学界の大御所で、松本清張の小説「笛壺」に当時のボスぶりが
  辛辣に描かれているが、その著『義経伝』で、月齢二十四日の壇の浦に八ノットもの
  激流があったという話にもならぬむちゃな推定をしたのに、その権威に押されて誰も
  反論しなかった。

これに続けて、谷沢は、「海洋資料と地球物理学を駆使して」、「海上保安大学校教授」の
金指正三『海上社会史話』(成山堂書店,1971)が黒板の推定の誤りを指摘したことを紹介し、

  壇の浦の勝敗をきめたのは潮流ではなく、無防備な平氏の漕手を、源氏が片っぱしから
  弓で倒したからだった。金指が苦労して出したこの結論はちょっと見ると幻滅的だが、
  司馬遼太郎がすでに『義経』(昭和四十三年、文藝春秋)のなかで、明確にこの立場で
  描いているのはさすがだ。

とする(^^) ただ、wikiを見る限りでは、金指は「歴史家。法学博士。法制史、海事慣習制度
の研究者。」のようなのだが(^_^;) これに対し、掛け値なく日本を代表する気象学者だった
荒川秀俊の『お天気日本史』(河出文庫,1988)所収の「義経は海流を利用したか」では、
黒板の8ノットを「むちゃな推定」としつつも、次のように結論づけている(同書17頁)。

  黒板勝美氏の潮流に関する議論は非常に粗雑なものであったが、だいたいにおいては
  まちがいはなかったのである。

なお、上述の新明解の用例に関しては、2015年5月31日に取り上げた
佐々木健一『辞書になった男~ケンボー先生と山田先生』でも言及した(^_^;)
http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-05-31

2015年7月4日に、奈良本辰也ほか『日本史こぼれ話』(角川文庫,1981)にも言及したけれど、
http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-07-04
同書194頁は戦前の帝国大学教授には大変な権威があったとして次のエピソードを紹介(^^)
黒板勝美が大津で講演後に雄琴温泉の国華荘(モルガンお雪もしばらく滞在したという旅館)
に宿泊すると(他県でも同様のことらしいが)滋賀県知事がフロックコートに威儀を正して
御機嫌伺いに来た由(*_*) 知事の顔を見るなり、浴衣着のまま座っていた黒板は「この県には
芸妓はおらぬのかね?」と尋ねたとか(-_-) 同書は有名歴史学者の仰天逸話てんこ盛り(*_*)
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