科学・技術偏重で歴史から学ぼうともせず、
予報に対する責任感も無さ気な能天気野郎の退屈極まりない本(+_+)

前々回の荒川秀俊『お天気日本史』(河出文庫,1988)の記事を書き始めた頃に、
新聞に載っていた新刊広告を見て、遺漏があってはまずいと、慌てて読んだのが、
古川武彦『気象庁物語~天気予報から地震・津浪・火山まで』(中公新書,2015)。

本書の「はじめに」(本書ⅲ頁)は、

  ・・・気象庁の歴史を観測システムや技術の開発、行政上の組織の変遷を軸に、
  それらに携わった人たちの実話や逸話を交えながら紹介したい。

と意気込むも、面白かったのは、根っから気象が好きな「天気野郎」の気風に関するコラム
(本書48~52頁)ぐらいで、とにかく内容は薄っぺらくて全篇是退屈な愚書だった(+_+)

伏木測候所の台風襲来での不手際(前々回・前回に紹介)や桜島噴火での測候所の判断ミス
(次回記事で取り上げる予定)などの話は本文にも巻末「気象庁年表」にも出てこない(*_*)
気象庁にとって黒歴史なんだろうけど、都合の悪い事実は公式の歴史から抹殺して無かった
ことにする社会主義国か(+_+) または著者が予報に対し責任感の無い能天気野郎(^_^;)

年表等を入れても180頁と中公新書にしては薄い本書はそれに比例して内容もすかすか(+_+)
「気象庁の歴史を・・・紹介」するはずも「観測システムや技術の開発」の話がほとんどで、
科学・技術偏重主義もここに極まれり(+_+) 第五章に昭和38年に建設を開始した富士山気象
レーダーの話があるけど(本書86~93頁)、コレはNHKの「プロジェクトX~挑戦者たち~」
の第1回が取り上げてたし、この大事業の主管課長(観測部測器課長)だった新田次郎が、
自らをモデルにした小説「富士山頂」(昭和42年)で描いてるし(映画化も)、更に新田の
『小説に書けなかった自伝』(新潮文庫,2012)でも頁を割いているのに、これらのことは
一切言及すらされておらず、何故か巻末の「参考資料」にも挙げられてないんだよね(..)
新田が関わったことは出てるが、その昭和38年2月のエピソードの叙述(本書88~89頁)で、

  二日がかりで[富士山に]登頂した彼らは、夜になると、大手町の気象庁ビルの屋上で
  望遠鏡を覗く気象庁測器課長の藤原寛人(後の新田次郎)らに向けて、フライヤーを
  焚いた。・・・/・・・その時である。大手町の藤原課長の望遠鏡がフライヤーの光を捉えた。

とあるが、細かいことだけど、この記述には間違いが2つある(+_+) 先ず、前掲『小説に
書けなかった自伝』の「年譜」の昭和38年に「四月、気象庁の測器課長に就任、同時に
富士山気象レーダー建設という大事業の責任を引き受ける。」(同書238頁)とあるように、
2月の時点では新田はまだ「課長」ではない。次に、「強力伝」で作家デビューしたのは
昭和26年(短篇集『強力伝』の直木賞受賞は昭和31年)ゆえ、既に「新田次郎」である。
頁数や参考資料を増やせば、本書の内容・記述はもっと正確かつ面白く出来たはず(^_^;)

実際、例えば、本書7~8頁は、明治25年の第5回「大日本気象学会」で同会頭に推挙された
榎本武揚の檄文を紹介し、加えて榎本が明治21年の「電気学会」の初代会長への推挙以来、
没するまで20年間同ポストにあったと指摘した後の次の一言には、目が点になったぞ(*_*)

  [榎本は]生来、理系であったのだろうか。

伝記とか読んだことないが、榎本が自分で石鹸を製造したと聞いたことあるし(今調べたら、
戊辰戦争後の獄中で石鹸の製造法を書き上げ、親戚の資生堂創業者の福原有信が製品化)、
榎本は幕府海軍の出身で留学経験もあることぐらい常識だし、当時の海軍がバリバリの理系
なことは教養があれば想像できるはず(^_^;) 榎本や勝海舟らが学んだ幕府の海軍伝習所は、
藤井哲博『長崎海軍伝習所~十九世紀東西文化の接点』(中公新書,1991)が詳述していて、
同書第Ⅲ章は「オランダ教師団の構成と科目分担およびその内容・程度」だが、同所開設の
契機となったファビウス艦長(中佐)による幕府海軍創設の(第二、第三)意見書の内容を
要約したという同書5頁を引いておく(後の海軍兵学校でも理系の基礎科目である普通学と
並ぶ「兵学はすべて理数系の実学・・・」と池田清『海軍と日本』[中公新書,1981]170頁)。

  オランダ海軍の伝習所は、蒸気船の運航法、大砲の操法と製造法、蒸気機関の取り扱い方
  と製造法について教育する。そのため伝習生は少なくとも、数学・天文学・物理学・化学
  などの普通学と、測量術・機関術・運用術・造船術・砲術その他の軍事学を学ぶことに
  なる。

石附実『近代日本の海外留学史』(中公文庫,1992)も榎本がオランダ留学で蒸気学を学んだ
ことを紹介するとともに(同書37頁)、留学生が帰国後に果たした役割も詳論し、日本でも
色々な分野で学会が結成された際に、帰国した留学生がその中心となったことも述べており、
榎本も地学研究の啓蒙的な団体である「地学協会」の中心だったとされている(同書275頁)。
それゆえ、本書の著者は解せなかったようだけど、榎本が大日本気象学会の会頭や電気学会
の会長に推されたことは、別に不思議でもなんでもないわけだ(^_^;)

更に言うと、戊辰戦争で榎本の率いた艦隊は箱館に着いた段階では13隻もの勢力だったのに、
戦後の残存艦船は千代田形・長鯨丸・大江丸・鳳凰丸の4隻だけ。藤井前掲書158頁によると、

  しかし、開陽はじめ神速丸・美嘉保丸・咸臨丸・長崎丸・千秋丸・高雄は、気象・海象の
  予測の拙劣のためか、座礁事故で失ったものであり、実際に戦闘で失ったのは、蟠竜・
  回天の二隻にすぎなかった。つまり、榎本艦隊の喪失艦九隻中七隻は、気象・海象の予測
  能力の欠如と運用術の技倆未熟のために自滅したものである。

気象予測でヘマした榎本が大日本気象学会会頭に推された点が面白いのに、本書にこういった
歴史的事実(の興趣)は出てこない(+_+) 藤井前掲書170頁だと、初代中央気象台長となった
荒井郁之助は幕府軍艦操練所出身で「・・・榎本艦隊に艦長クラスで参加し、海軍の気象予測
能力の不足を痛感したので、明治になると北海道開拓使から内務省に移っ・・・」たそうで、
もともと気象観測業務は内務・海軍の両省で競合してたのが、内務省で集中して行なうことに
なった明治16年に荒井も初代気象台長就任の由(昭和戦時期に陸軍は「・・・気象台を配下に
おこうと画策した。一方、海軍は気象台と連携する方向を選んでいる。」との本書30頁の記述
も、この藤井前掲書の説明で得心がゆくね)。wikiを見ても面白い「実話や逸話」を残してる
荒井だけれど、以上のような歴史的事実は本書には全く出てないし、本書6頁には荒井の名前と
写真が載ってるだけで人物紹介など一切なし(+_+) 著者に教養がないと退屈な本になる(-_-)

前々回と前回の記事のタイトルを内容に即して変更したm(__)m
過去記事への追記で更新してたつもりだったが、アップする記事の順番を変更した(^_^;)

[追記]
荒井郁之助は、調べたら、wikiに書かれている以上に、色々な分野で大きな足跡を残していた
知られざる偉人だった←小生が知らなかっただけ(^_^;) 本書には出てこないけれど気象庁に
印した荒井の巨歩を追記(^^) 新田前掲書『小説に書けなかった自伝』102~103頁を引く。

  気象庁は昭和五十年で創立百年を迎えたが、初代気象台長の元軍艦奉行荒井郁之助以来
  気象台の長となった人は、例外なく文章家であり、そして、部下を君と呼ばずにさんと
  呼んだ。/初代の台長荒井郁之助は、/〈私は戦さ(函館戦争)が終わったときから、
  誰に対してもさんと呼ぶことにしている〉/と云っていたそうである。その伝統は各台長
  によって引き継がれ、私が気象庁に入った時(昭和七年)の中央気象台長岡田武松さんも
  すべての台員をさんと呼んだ。そしてなかなかの文人だった。その次の台長になった私の
  伯父藤原咲平もその通りだった。佐貫[亦男]さんも、その後に[測器課長として]来た
  吉武[素二]さんも、部下をさんと呼んだ。君と呼ぶことは絶対になかった。だが、
  気象庁内でこの荒井郁之助以来の伝統を守っている人はそう多くはなかった。

著者は本書172頁の「おわりに」で、

  ・・・明治初期の創立以来、気象の仕事に携わることを天職と心得て生きてきた数千人に
  上る人々・・・そんな彼らに敬意を込めて「天気野郎」の名を呈したいと思う。

とし(女子職員はいなかった?)、天気野郎の「気風」に関するコラムでは、気象関係者間で
「測候精神」or「岡田イズム」として呼ばれる「・・・観測における心得に加えて、日常生活
における気象人のあるべき姿にまで踏み込んだ一種の精神訓・・・」を紹介している。それは、

  気象や地震などの観測に際しては予断を持たず、二四時間常に虚心で対峙すべきである。
  そのためには普段から自己の陶冶に努めるとともに、普段の生活に至っても自己規律が
  必要である。さらに、気象に携わる者は一体感あるいは和を尊ぶ必要がある。

といったような意味らしいのだが(本書48~49頁)、冒頭の「予断」とはどこまでを含むのか、
桜島大噴火での測候所の判断ミスを考えると気になるのはさておくとして、この「一体感」の
醸成に〈部下をさんと呼ぶ〉という「荒井郁之助以来の伝統」も一役買ったのではないか(^^)

  他方、「気象一家」の弊風であるとして、部内のみならず外部から批判的に見る人も
  いるようだ。

と本書49頁は指摘するが、これは引用した新田の最後の一文とも一脈相通ずるものかしら(..)

ルパンのED曲、石川さゆりもいいけど小島麻由美の方が・・・「真夏の海」しか知らんが(^_^;)

更に追記(^_^;) 上述の如く本書88~89頁の叙述の誤りを2つ指摘したが、書きながら不思議
に思っていた点があった。前掲『小説に書けなかった自伝』118頁には次のように書かれている。

  昭和三十七年の暮もおしせまったころ、明三十八年度の国家予算が内示された。この中に
  気象庁が数年前から予算要求を続けていた、富士山気象レーダー設置予算二億四千万円が
  あった。まさか通るまいと思っていたのが、どういう風の吹き廻しか通ったのである。

昭和38年度予算で認められた事業なのに、本書87~89頁が描く大手町の気象庁と富士山頂
との間に遮るものが無いことを確認する見通しテストが、なぜ昭和38年2月、つまり昭和37年度
に実施されたのか、という点が引っかかったのだ(..) 前掲「富士山頂」あたりを読めば、判る
ことかもしれないが、昨日、某所の本棚を何気なしに眺めていたら、ある本の存在に気付いた。
それは、江戸川大学土器屋由紀子ゼミ編『変わる富士山測候所』(春風社,2004)という本で、
同テストに参加して富士山に登頂し、「プロジェクトX」にも出演した伊藤庄助(元大成建設)
に対する「自然と対話する~富士山レーダー建設」と題したインタヴューも収録されていて、
その中に次のような発言があった(同書107頁)。

  気象庁は数年前から、富士山頂にレーダーをつくる計画を進めていました。ところが、
  すべてデスクワークでやっていた。業者が調べていくうちに、どうやら富士山の頂上から
  東京まで電波が届かない可能性があることがわかってきた。・・・予算が下りたのに着工
  しないのはおかしい。だが、着工しても障害物にぶつかり何億円もするレーダーが使いもの
  にならないようなことになれば大問題。それで二月に登山することに決まったようです。

外部の人間による伝聞証言だけど、気象庁のいい加減さ、こういう裏事情、てゆーか黒歴史を
感動的エピソードで塗り隠す本書の姿勢が分かる(-_-) 依然として予算の謎は残るが(^_^;)
wikiで「富士山レーダー」の項を見ると「官製談合のモデルケース」として会計の専門家から
批判されたようだけど、前掲『小説に書けなかった自伝』が叙述する入札の内幕は素人目にも
問題があることは分かるよ(+_+) 技術的な観点からの新田の言い分も理解できるけど(^_^;)  

更に指摘すると、厳寒の富士山に登って、この見通しテストを実施したのは、本書88頁には、

  気象レーダーの開発を担う三菱電機の技術者とガイドの七人である。

とあるが、実際に携わった者としてインタヴューに答えていた伊藤庄助は大成建設の元社員で、
同社の社内報「たいせい」2001年6月号の「社史探訪」から引かれた次の記述が、下記サイトに
出ている(しかも、「大成建設OBに聞く」として、伊藤庄助も登場している)。

  昭和38年2月、レーダー設備を担当する三菱電機(株)と当社では、気象庁によるレーダー
  設置工事受注に向け、頂上の剣ヶ峰から東京の気象庁までレーダー電波が届くことを実証
  するための調査を行った。  

http://librarytaisei.jp/works/vol001/index_02.html

調べれば調べるほど、本書からは不正確な記述が見つかるんだけど、マジで酷すぎる(`^´)

ところで、某所の本棚は今まで何十回と眺めてたのにその本に気にも留めなかったということは、
書架のブラウジングによる本との出会いとやらも、結局は関心次第となるのかしらね(^_^;)

三度追記^^; 新田次郎『富士山頂』(文藝春秋,1967)を読むと、富士山頂の剣峰から東京の灯
が見えることは富士山測候所勤務経験者間で知られていたが、その灯の中に気象庁も含まれる
かは確認しておらず、調査費は前年度予算でも未計上の様子(-_-) んで、「視通調査は富士山
測候所と連絡すればできないことはなかったが、厳冬の富士山頂にボーリング機械を持ち上げて
の地盤調査は困難に思われた。」(同書44頁)ところ、「摂津電機」の申出で、「気象庁のやる
べきことを、まだ契約もしてない会社がやる・・・」ことになった由(同書45頁)。予算の謎は
解けたが、視通試験は「・・・気象庁の時計台の屋上から望遠鏡で観測するという方法で・・・/
測器課員は交替で居残りをした。富士山頂と気象庁時計台間は携帯無線電話で連絡を取った。
・・・深田調査官の望遠鏡は見事に、富士山頂における閃光をとらえたのである。」(同書47頁)
としてて、視認したのは主人公の「気象庁測器課長補佐官葛木章一」ではない。この主人公の
モデルは藤原寛人=新田次郎ゆえ、先に引用した本書88~89頁の叙述は何だったんだ(*_*)
でも、『富士山頂』はあくまで小説なのだから、本書の方が事実に即しているのかしら^^;

だが、NHK「プロジェクトX」制作班編『プロジェクトX 挑戦者たち 1 執念の逆転劇』(日本放送
出版協会,2000)収録の「巨大台風から日本を守れ~富士山頂・男たちは命をかけた」(西田
節夫執筆)はどうか? 富士山測候所から東京の明かりが見えるため、電波も通じるものと
思い込んでいたこと、三菱電機側から見通しテスト(視通テスト)と地盤調査を〝自主的に〟
申し出たことが描かれている(同書26~27頁)。また2月に登頂したのは「・・・三菱電機の
調査隊五名・強力二名の七人のパーティー・・・調査隊の内訳は、三菱電機の技師一名、大成
建設の工事担当者二名、そして測量会社東洋航空の測量技師二名である。」(同書28頁)。
細かいことのようだが、追記で指摘した通り、本書88頁の記述は不正確だったわけだ(-_-)
それでは、同書30~31頁の次の件を良くお読み頂きたい。

  さて、視通テストである。・・・夜、時間を決めて東京方面に向けて点灯するのである。
  正確には光の向けられている先は、大手町の気象庁ではなく、渋谷区にある三菱電機の
  千駄ヶ谷会館であった。一メーカーが、藤原[寛人]課長補佐の〝暗黙の了解〟のもとに、
  〝自主的に〟行うものである以上、気象庁は使用できない。幸い、同会館は富士山頂から
  大手町を結ぶ直線に非常に近いところに位置するため、ここでの視通テストがOKなら
  大手町でも大丈夫であることはあらかじめ確かめてあった。この会館屋上にトランジット
  ・コンパス(測量用望遠鏡)が据えつけられ、レンズは正確に富士山頂に向けて固定
  された。ここに技術課の尾形技師らが待機し、山頂と無線で連絡を取りつつ、テストを
  行うのである。

お分かり頂けただろうか。先に引用した本書88~89頁の見てきたような叙述は創作かよ(`^´)
書名に「物語」とあるが、本書はフィクションなのか(+_+) ここまでテキトーな叙述ばかりだと、
素晴らしき能天気野郎と著者に敬意を表するよ(^_^;) 天気予報が信用できないわけだ(-_-)

追記第4弾(-_-) 再三引用した本書88~89頁の「実話や逸話」ならぬ捏造エピソードに出てくる
「大手町の気象庁ビル」は、昭和39年竣工ゆえ昭和38年2月の時点では存在しないはず(`^´)

[追記151203]

読んだ記憶はあり貼った付箋に書き込みまでしてる歴史随筆集を何気なく本棚から取り出すと、

◎南條範夫『城と街道』(中公文庫,1981)

1965年に読売夕刊に1週間ほど連載の「榎本武揚」も収録されてた^_^; 同書284頁に曰く、

  さらに、この同じ人物が、露仏独英蘭の五ヵ国語をよく解し、航海術や電信技術を会得して
  いたのみならず、気象学、鉱物学、化学、機械学、地質学、植物学に至るまで、水準以上の
  知識を十分にマスターし、かつそれを現実に有効に活用したことを知っているものは、
  きわめて少いだろう。

本書の著者を「教養がない」と断じたのは酷だったかと一瞬反省も、これは50年前の記述^_^;
wikiにも出てない榎本の人柄を物語る挿話やwikiの記述より詳しく書かれた話もあったりして、
17頁足らずなのに超内容の濃い小品(^^) 化学書の差入れを獄中から妻に文で依頼するも、
福沢諭吉から獄中に差入れられたイギリスの化学関係の本は即返却するようにと姉への手紙に
書いてて、その中で榎本は福沢を痛烈に批判した由。これは福沢程度の学者が翻訳すべき本で
あって、小子が筆を労するまでもないもの。もっと学問ある人物かと思っていたのに存外なり
と嘆ぎ、これ位の見識の学者でも百人余の弟子がいるとは我邦未だ開化文明に届かぬか、と。
「舎密学(化学)は未だ日本国中に小生に並ぶ者これなしと高慢ながら存じ居り候。」と自負
してたそうで(同書286~287頁)、後年の福沢による榎本弾劾に照らし合せると興味深い(^^)
谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋,2005)57頁は横山重『書物捜索』を紹介し、
『瘠我慢之説』のターゲットは実は榎本であって、勝海舟はとばっちりだったとしてるね^_^;
ついでに付記するが上述の荒井経歴は藤井前掲書の通りだけど何年とか正しいかは不明^_^;