こんなデタラメでも「西行研究の第一人者」だなんて吃驚ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 目崎徳衛『古人への存問』
(東峰書房,1986)を読んでて、バカチンを連発しちゃったじゃんかヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

本書の帯には、角川春樹が「西行研究の第一人者が語る普段着の西行論」と題して、〈先に、西行を
「数寄の遁世者」として捉え、第一回角川源義賞を受賞した著者が、史実と伝説の中に浮かびあがら
せた西行法師の実像。いま、ブームの頂点にある西行を識ることは、日本文化の過去と未来を先取り
することだ。〉と宣伝文を書いていた(゚o゚;) 目崎徳衛は西行の研究で知られる歴史家で、専門書も
出してるし、日本歴史学会編集の人物叢書(吉川弘文館)でも『西行』の巻を担当している(´・_・`)

本書36-85頁に「乱世の自由人西行」という講演(?)が収録されてるが、その「四 晩年と往生」の
冒頭部分(78-79頁)を引いて、歴史学も国文学も専門外のみどりんが「西行研究の第一人者」に対し、
4バカチンを謹呈オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 目崎の愛読者よ、目を醒ましなさいオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

    では、西行の晩年と往生に話を進めてまいります。六十九歳のとき陸奥へ長い旅をして
    都へ帰ったのですが、そのあと一、二年は嵯峨のあたりに住んでいたようです。そのころ
    寿永二(一一八三)年、ちょうど平家が滅びた直後に『千載集』という勅撰の歌集が
    つくられ、その中に西行の歌は十八首採られました。亡くなった人にはそれより多く
    採られた人があるのですが、生きている人としては最も多い数です。西行は生涯和歌
    に没頭してきたのですから、晩年になって勅撰歌集にそこまでの優遇をされたという
    ことで、わが事成れりという満足を覚えたと思うのです。生涯の風流はここで完成した
    と考えたようです。/そこで、西行は生涯の自信作を選び出し、それらを二巻の歌合に
    編成しました。歌合には西行は歌を出さなかったと前に申しましたが、この時つくった
    歌合は、自分自身の作品だけを取り出したもので、似たようなモチーフの自作を左と右
    に組み合わせて、三十六番七十二首ずつに編成したのです。そういう歌合を二編つくり、
    それを伊勢の内宮と外宮に奉納するのです。そして左右とも自分の歌ですから、自分が
    勝負を判定するわけにはいかないので、これを片方[=「御裳濯川歌合」]は[藤原]
    俊成、片方[=「宮河歌合」]はその子の[藤原]定家に求めます。

第1に、「寿永二(一一八三)年、・・・に『千載集』という勅撰の歌集がつくられ」たとするが、
「寿永二(一一八三)年」は後白河院が藤原俊成に勅撰集の撰進を命じる院宣を出した年にすぎず、
千載和歌集が「つくられ」て奏覧されたのは文治4年(1188年)だぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

第2に、千載集に採られた作者で「生きている人としては最も多い数」は西行の「十八首」とするが、
撰者の藤原俊成の36首が「生きている人としては最も多い数」だぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

なお、西行の18首より多い22首が千載集に入集の俊恵(源俊頼の子で、鴨長明の和歌の師)も「永久
元年(一一一三)生、没年未詳。一説、建久二年(一一九一)一月十二日没。」(久保田淳『新古今
和歌集全注釈 六』[角川学芸出版,2013]424頁)ゆえ、当時まだ「生きてい」た可能性がある(-"-)

第3に、千載集に「満足」して西行は「御裳濯川歌合」等を編んだとするが、「・・・実際には、文治
二年末か同三年(一一八七)の春ごろ陸奥より帰京、その後、『御裳濯川歌合』の加判を俊成に依頼、
俊成はおそらく文治三年中に加判を終え、その翌年四月、『千載集』が実際に奏覧されるという道筋を
たどるので・・・」(三木紀人[全訳注]『今物語』[講談社学術文庫,1998]278-279頁)あって、
「御裳濯川歌合」は千載集の完成・奏覧前に既に成立していたんだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

このように事実経過が全く逆なのだから、千載集に西行は「満足を覚え」て「生涯の風流はここで完成
したと考え」、「そこで、西行は生涯の自信作を選び出し」て「御裳濯川歌合」等を「編成しました」
という目崎徳衛の論旨は、完全に空中楼閣、デタラメな妄想でしかないのよオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

第4に、千載集に「十八首採られ」て「わが事成れりという満足を覚えた」と西行の心中を推測するが、
むしろ西行は落胆したと同時代の人々は考えたから、説得力が無いぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

「生きている人としては最も多い数」(←ホントは違うし)だから「満足を覚えた」だなんて、まるで
nice!をばら撒いて掻き集めた義理nice!の数でランキング1位になって悦に入るSo-netブロガーみたい
じゃないのオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 西行をそんなニセモノと一緒にしちゃダメよオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

    一、現代人の心で古代のことを考えてはいけない。
    二、古代のことは、古代の人の心にかえって考えなくてはならない。
    三、・・・

土田直鎮が斯く「遺言」したと倉本一宏は記すが(土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』[中公文庫,
2004改版]536頁)、西行が千載集に「十八首採られ」て「わが事成れりという満足を覚えた」だなんて
俗っぽい「現代人の心で」考えてんじゃねーよ(-"-) どう思ったか西行が何も書き残していない以上は、
西行と同時代の人々の捉え方を参考にすべきであり、西行の心中を察した説話こそ補助線になる(^^)
藤原信実(神護寺の伝・源頼朝像などの作者とされてきた父の藤原隆信は藤原定家の異父兄)が編んだ
『今物語』の説話(「四二 鴫立つ沢」)を、三木紀人・前掲書276-277頁の「現代語訳」で引く(^^)

    西行法師が陸奥の方へ修行の旅をしていた時、『千載集』が撰進されると聞いて、
    (その集の様子が)知りたくてわざわざ都に向かったところ、知人にばったり
    出会った。(西行は)この集のことなどを尋ね聞いて、「私が詠んだ、/鴫たつ沢の
    秋の夕ぐれ(鴫が飛び立つ沢辺の秋の夕暮よ)/という歌は入集しましたか」と
    尋ねたところ、(その知人は)「いいえ、入集していません」と言ったので、
    「それでは上京して、何になろうか」と言って、そのまま(陸奥へ)帰ってしまった。

この「心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」は、後に勅撰集である新古今和歌集に
選ばれたし、西行の代表作とされる歌(^^) しかも、西行自身が「自信作」と考えていたことは、同歌を
「御裳濯川歌合」に入れてることからも分かる(^^) そもそも目崎徳衛自身も本書43頁で同歌を紹介し、
「・・・みずからも会心の作と考えていたようであります。事実また名歌ですね。」と述べてる(@_@)
従って、同歌を採らなかった千載集に対し西行が「満足を覚えた」だなんて合理的に考えて疑問だし、
むしろ西行は千載集に落胆した、と同時代人は推察したから、上記のような説話が生れたと愚考(^^)

この「乱世の自由人西行」は講演っぽいから(本書228頁の「初出一覧」は国立教育会館編『教養講座
シリーズ』41[1982年]とする)、口が滑ることもあり少々のミスはスルーすべきでは?と思われる
かもしれないが、本書への収録時に訂正できたはずだし、また目崎徳衛は著書『百人一首の作者たち』
(角川ソフィア文庫,2005)においても、間違った事実関係に基づいて論を展開してたり、歌の解釈で
注釈書にもないトンチンカンな解釈を連発していることは別ブログ「けふもよむべし あすもよむべし」
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/ )で下記のように何度も何度も指摘した(-"-)
とはいえ、今後も目崎徳衛の本は読み続けるだろうから、今まで以上に疑いながら読まなきゃね(^_^;)

久安百首の方が詞花集より早いのに、詞花集への不満から久安百首を崇徳院は詠進させたと妄論(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07

古今集の中の紀貫之の有名な歌の詞書に出てくる「石井」を地名と勘違い∑( ̄ロ ̄|||)なんですと!?

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-18
 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-05

小野篁も6首なのに三条院を「勅撰入集わずかに八首で、とても歌人などとは申しかねる」と暴言(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-06

三条院の新古今集の歌の「月影」は「[藤原]統理の隠喩」なのに「月を詠んだもの」と浅い解釈(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-07

小倉百人一首に関する歴史認識の誤りと藤原良房の古今集の歌を「のびやかな作」とズレた評価(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-09-24

ケアレスミスなんだろうけど、「敦良親王」を「敦成親王」と歴史家として恥ずかしい誤記(ノ_-;)ハア…

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-09