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杉本苑子『江戸を生きる』

「淡路島と琵琶湖の形はなぜ似ているか」に興味がある由、
星野之宣の発想は凄いね、どんなマンガになるのかしら(^_^;)
地盤が沈下し陥没した分そっくりそのまま海底が隆起して島になった・・・とか?
その程度しか凡人=小生は思い付かんけど、そもそも「似ている」なんて気付かないよ(^_^;)
これは『宗像教授伝奇考【特別版】』(潮出版社,2002)に収録されていた、
諸星大二郎とのスペシャル対談での発言の一部だが(同書240頁)、その後、
『血引きの岩』(朝日新聞社,2012)というスプラッターなマンガに結実(^_^;)
それにしても超一流のマンガ家の発想力や想像力には只管感服m(__)m

歴史家による手堅い歴史書は好きだが、歴史の専門家は文献・史料に拘泥し過ぎな感も(^_^;)
叙述が慎重になり過ぎて読んでて退屈な時も←専門家の御苦労を知らぬド素人の戯言m(__)m

谷口研語『明智光秀~浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社新書y,2014)を読了したが、その
「はじめに」にあるように光秀の実像を示そうと江戸時代の文献をできるだけ排除した結果、
微細な事柄ばかり叙述されてて正直退屈だった←ごめんなさいm(__)m 逆にそれだけ怪しげな
文献や史料から形成された光秀の〈虚像〉に毒されていたということで勉強にはなったm(__)m
それに本能寺の変の件は分かり易くて良かったし、同書187頁で光秀の与力大名の筒井順慶に
東国への国替えが内示されたと推定し「光秀が堪忍袋の緒を切ったのは、その長年つちかって
きた与力大名との縁を断ち切られることになったのではないか」(同書189頁)としてた(^^)

その点、大胆さは小説家の特権だろうから、歴史小説や時代小説の作家の手による小説や随筆
(≠身辺雑記)は史実を踏まえながらもギリギリのラインで作家的想像力を駆使した独創的な
解釈も示してくれたりして面白いし、その発想からは知的刺激も受けられて参考になるね(^^)
小説家が専門家はだしの新解釈を示し、それを研究者が跡追いすることもあったりするし(^^)

有名なのは、源実朝を暗殺した公暁の背後の黒幕として三浦義村(藤岡弘、のイメージ強い)
を描いた、永井路子の歴史小説「覇樹」(直木賞受賞の連作小説集『炎環』[光風社,1964→
文春文庫,1978]の中の一篇)のプロットが、石井進『日本の歴史7鎌倉幕府』(中央公論社
,1965→中公文庫,1974)によってオーソライズされて、学説へと昇華した例だろうね(^^)

たとえ小説であってもきちんと誠実に評価する石井の研究者としての姿勢・態度は、伊藤正敏
「解説~歴史ロマンと実証が出逢うとき」(網野善彦&石井進『米・百姓・天皇~日本史の
虚像のゆくえ』[ちくま学芸文庫,2011]276~275頁)が紹介してる石井の学風・人柄に由来
するところが大きかったのではないかしら(^^) こんな素晴らしい研究者がいたんだね(^_^;)

石井進の御墨付は大きかったみたい(^^) 永井路子本人の弁によると(「歴史小説を書きながら
~小説家、史料を読む」黒板伸夫&永井路子共編『黒板勝美の思い出と私たちの歴史探究』
[吉川弘文館,2015]196~197頁)、この『炎環』で提唱した実朝暗殺北条氏黒幕否定説を、
大山喬平の『日本の歴史・鎌倉幕府』(原文ママ)が採り上げてくれたのだが、よく読むと、
「私のことを評価しているのではなく、どうも石井進先生がそうおっしゃるから、認めても
いいというような難しいご表現であったのではないかと思います。」(同書197頁)(^_^;)

永井は、五味文彦、三浦勝男との鼎談「源氏三代と東国武士団」(永井路子『きらめく中世~
歴史家と語る』[有隣堂,1995]所収)で「しかし、これ[義村黒幕説]は私の全くの独断と
偏見でありまして、なかなか賛成してくれない。」と弱音を吐き、「でも、石井進先生が大分
永井説に肩入れされていますね(笑)。」と五味から揶揄(?)されてた(同書33頁)(^_^;)

なお、最近のだと、高橋秀樹『三浦一族の中世』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2015)
109頁は「そもそも『黒幕』なるものを想定する必要はあるまい。」とした上で、義村黒幕説
の大前提である北条義時と義村の対立・利害関係すら否定していたことを一応メモっておく。

知られてない例も顕彰しておこう(^^) 海音寺潮五郎の歴史随筆に「戦国英雄の性格解剖~
謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖」という一篇がある(初出は不明)。『乱世の英雄』
(講談社,1956→文春文庫,1991)『海音寺潮五郎全集 第二十一巻 史論と歴史随筆』(朝日
新聞社,1971)、『史談と史論(下)』(講談社文庫,1977)に収録されている。そこでは、
「謙信は高血圧、信玄は低血圧だったのではないか」(文春文庫版52頁)として、2人を
戦争のしぶり、性質、生活態度、用心深さの諸点で比較した上で次の如く論じる(同58頁)。

  信玄の方は、徳富蘇峰翁が、「近世日本国民史」の中で、御宿大堅物の書簡中に、/
  「・・・[略]・・・」/とあるのを引いて、その病気は肺病であったらしいと考証して
  いる。/さしあたって、書名を思い出さないが、以前はぼくも信玄が喀血した記事を読んだ
  記憶がある。/肺病患者や、かつて病歴のある者には、低血圧の人が多い。この文章を書く
  にあたって、お医者さんに質したのだから、これはたしかなことである。/現在普通に
  行われている信玄の肖像画は、大兵肥満、アゴは二重にくくれ、口ヒゲ頬ヒゲを生やし、
  赤ら顔らしく、いかにも高血圧患者的だ。これは松平楽翁の「集古十種」に収録されている
  ものがもとで、さらにそのもとは高野山の成慶院所蔵の画像から出ているらしいのだが、
  果たして信用出来るものであろうか。

武田信玄の肖像画として膾炙してきた成慶院所蔵画への疑問を呈していた(^^) 1956年に!
肖像画への医学的観点からの疑問ゆえ、医師に確認してても、海音寺は医学の専門家ではない
から、セカンドオピニオンとして医師(整形外科)の篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった
~肖像画29枚のカルテ』(新潮新書,2003)69~70頁を引く(「一般に」昔の肖像画[似絵]
は人物が「右むき」なら「本人をまえにして活写した作品」、「左むき」は「あとから家族や
関係者にきいて想像しながら描いたもの」という「ならわし」があったと同書67頁)(^_^;)  

  和歌山県の高野山成慶院に所蔵されている武田信玄像と称される人物は、つるつるに
  禿げた頭にひげ面の丸顔で、力士のようによく肥えた巨体をしている。人を射るような
  眼光の鋭さ、鼻の下にたくわえたひげも猛々しいばかりであり、かれの右側にはこの勇将に
  ふさわしい見事な太刀がおかれている。安土桃山時代の画家長谷川等伯が描いたとされる
  晩年の信玄左むき像だが、「はたして本人の肖像画なのか」といううたがいが長らく
  抱かれて現在にいたっている。

引用の途中だが、そんな「うたがい」を誰が「長らく抱」いてたのかな?「藤本正行」という
回答はナシね(^_^;) そういう「うたがい」が人々の間で広く共有されてきた事実を示す文献や
そういう「うたがい」を公表して(被引用度が高い等)長く人々に受け入れられてきた文献が
あるなら教えてほしいね(-_-) そもそも成慶院所蔵画が長い間これだけ流布され定着していた
事実が説明できないじゃん(-_-) 引用に戻ると、

  おなじ高野山の持明院に所蔵されている武田信玄像は別人のように痩せてひきしまった体形
  である。しかも右むき像で、本人が二十五歳ごろにモデルになったという。描いた絵師は
  未詳ながら武田勝頼によって高野山に奉納されたことはたしからしい。たぶん青年時代の
  信玄であろう。それにしても成慶院の左むき像とは似ても似つかない。信玄は五十三歳の
  とき膈病(食道癌)あるいは労咳(肺結核)で他界したから、晩年の実像はかなり痩せて
  いたのではなかろうか。ちなみに等伯の描いたでっぷりとした人物は能登の畠山氏の系統
  を引く武将ではないかと推定する説もある。

海音寺の診立てとおおむね同じだし、同書89頁は米沢の上杉神社所蔵の謙信肖像画から
「・・・いかにも高血圧症の患者を思わせる。」とし、これも海音寺の診立て通り(^^)

さて、この成慶院所蔵画を能登畠山氏と推定する説とは、藤本正行や加藤秀幸によるものだ。
藤本正行の著作は勉強になるので小生はなるべく読むようにしてる(^^) 大変な話題となった
平山優『長篠合戦と武田勝頼 敗者の日本史9』(吉川弘文館,2014)、同『検証 長篠合戦』
(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2014)が非常に良かったので、それに反論したという
藤本の『再検証長篠の戦い~「合戦論争」の批判に答える』(洋泉社,2015)も読みたいのに
利用してる図書館は、いつも藤本の著作なら出版されればすぐ入るのに未だに入らない(+_+)
資料費が大幅に削減されたこと、しかも、それは首長選の報復のため、という真偽不明情報
がネット上に書かれてたけど、関係あるのかな(..) 誰か同書をリクエストして下さいm(__)m

話を戻すと、藤本は、成慶院所蔵画の像主が武田信玄ではないこと、能登畠山氏と推定できる
ことを、『鎧をまとう人びと~合戦・甲冑・絵画の手びき』(吉川弘文館,2000)190~231頁、
更に、その後の反対説への批判も含めてヨリ詳細に『武田信玄像の謎』(吉川弘文館歴史文化
ライブラリー,2006)で論じている(前者208~209頁の叙述から藤本が能登畠山氏説を初めて
公表したのは同「武田信玄の肖像」月刊百科308[1988]のようだが小生は未読。後者201頁に
よると、同じ能登畠山氏説に立っているが、具体的な像主を、藤本は「・・・最初から義続説を
提唱しつつ結論を保留・・・」、加藤は「・・・最初は義綱説を発表し、のちに義続説を断定的に
述べられた・・・」といった違いがある由)。後者は慎重かつ丁寧な推論が重ねられての結論
なので、小生には非常に説得力が感じられた(^^) ちなみに、後者163頁や184頁によると、
成慶院所蔵画は「対看写照」、つまり「・・・想像で描いたり、他人の先行作品を写したりする
のではなく、像主に対面して描・・・」いたものと評価されていることもメモっておく(^_^;)

ただ、両書とも海音寺による成慶院所蔵画への医学的観点からの疑問は言及されていない(;_;)
藤本は「最初の像主非信玄説」として、紋章学の大家である沼田頼輔の所論を紹介していて、
その根拠を「・・・誤解や錯覚による。」と否定しつつも、「それでも像主を信玄ではないと
する結論は正しいと思うし、明治三十三年(一九〇〇)の時点で、通説に対し疑問を提示した
ことは評価すべきだろう。」と買っていた(後者41頁)(^_^;)

wikiの「武田信玄」の項には、まるで藤本正行が「(持病の)労咳や癌で死んだと言われる割
には、身体がふっくらしている。」という疑問点も指摘したかのように書かれているが、両書
を見る限りでは、そのような医学的観点からの疑問は一言も論述されていない(^_^;)

海音寺潮五郎は司馬遼太郎の絡みでしか評価されてない嫌いが最近あるけど、このような非凡
なセンスにこそ括目すべきだよ(^^) ただ、ファンだが信者ではないので、角川書店編『日本史
探訪9戦国の武将たち』(角川文庫,1983)の「謙信と信玄~川中島に会した宿命の両雄」での
新田次郎と海音寺の対談(1971年度にNHKで放送)にも触れておく(同書139頁)。

  新田   ・・・肖像画から見ると――当時の肖像画っていうのは、誇張されて描いてあり
       ますけれども――一時はかなり恰幅がよかったんじゃないかと思います。しかし
       晩年の肖像画で痩せているのもあります。/ただ信玄は、最後は、肺患で亡くな
       っています。くわしいことはわかりませんが、しばしば肺患が起こって、そして
       最後にそれが命取りになったというように考えられないこともありません。晩年
       はあのように太っていたんじゃなくて、やはり痩せていたんじゃないかという
       ふうに考えています。

  海音寺 確かに信玄の肖像画には、あのでっぷり太ってあから顔、というような感じの
        ものと、それから、何か痩せて不健康な感じのものと、両方ありますが、両方
        ともほんとうでしょう。信玄という人は結核で死んだというのが、ほんとうらしい
        ですから、・・・

自分で書いたことを忘れちゃったのか、晩年にブレちゃったみたいで残念(^_^;)

さて、8月の最後に読了した杉本苑子『江戸を生きる』(講談社文庫,1997)は、
時代小説の作家による歴史随筆集だが、「馬琴の嫁 おみち」が収録されていたので、
2015年8月5日に森田誠吾『曲亭馬琴遺稿』を取り上げた流れで借りてみただけなのに、
収録されてる各随筆は歴史の勉強になったし、意外にも(失礼m(__)m)面白かった(^^)

本書は「江戸を生きる」と「歴史の曲がり角」から構成され、収録随筆は次の通り。

江戸を生きる
その後の織田一族/私説 徳川光圀/松木荘左衛門の抵抗/赤穂事件のかげに(吉良義周/
浅野大学/〔安兵衛の妻〕妙海尼)/講釈師 馬場文耕の死/風狂の絵師 北斎/馬琴の嫁
おみち/専権将軍 家斉/泣き笑い人生 中村仲蔵/無頼の御家人 勝小吉/最後の将軍 慶喜

歴史の曲がり角
大坂夏の陣/駿府梅屋の没落/木曽川治水紀行/新宿むかしむかし/白虎隊無惨

平凡なタイトルに食指が動かず後回しにした随筆が、読むと意外な着眼点・切り口で面白い
内容だったり、他方で小生に予備知識(通史レヴェルだけれど)があったテーマの随筆でも、
著者の視野は広く、その多面的な叙述から、へぇ~な知識も得られたりして良かった(^^)
それにしても、この著者の史料評価や解釈は実に小気味好いね(^^) 気風がいいのかな(^^)

「泣き笑い人生 中村仲蔵」と「講釈師 馬場文耕の死」の2篇は特に関心を持って読んだ。

前者は中村仲蔵の初代と3代目の話が主で、歌舞伎役者に関して小生は全くの無知なれど、
一ノ関圭『鼻紙写楽』(小学館,2015)が初代を描いてたし、3代目の自伝『手前味噌』が
メチャ面白いことは小生ですら知っていた(抄訳本の方は不評だが、ともに小生は未読)。
かなり面白い人物と分かり、仲蔵を描いた著者の小説(「蝶の谷」「仲蔵とその母」)や
松井今朝子の時代小説大賞受賞作『仲蔵狂乱』まで読んでみようという気にもなった(^^)

後者は「妲己のお百」を捏造した『秋田杉直物語』の馬場文耕かぁ~と思いながら読んだ
(^_^;) 斯くの如く捉える所以は、海音寺潮五郎の『哀婉一代女』(時代小説文庫,1988)
上・下(有名な海音寺ファンの方が海音寺の書いた随筆を誤読した上でこの作品を腐して
おられたのにはちょっとね(+_+) この作品を新聞に連載する2ヶ月前に「実説妲己のお百」
も発表してて、お百の雪冤に懸けてた様子)や同『列藩騒動録』(講談社文庫,1976→2007
新装版)上巻所収の「秋田騒動」を読了済だから。それはそれとして面白かったけど(^^)

上記誤読もそうだけど、各随筆の初出が何時なのかは大事なので(前述の海音寺の疑問も
多分1956年以前に公表されてたのだろう)、本書はその点の記載が一切ないのが残念(+_+)
でも中央公論社から1976年に単行本、1979年に文庫本として刊行されたこと、「私説 徳川
光圀」「講釈師 馬場文耕の死」は講談社文庫『秋蘭という女』に重複収録されてること等
を本書はちゃんと巻末に明記している点は非常に良心的で読者にやさしい(^^)

とりあえず誤植や気になった点(小生の無知かもしらんが)も挙げておく(^_^;)

本書62頁

  ・・・上杉と吉良は、同じ足利の一族だし、・・・

本書205頁(家康の大坂夏の陣での行軍日程)

  名古屋を発ったのは十五日。三日後に岡崎城にはいり、矢橋から船で大津に上陸。

本書211頁

  密告者を、甲州浪人の小畑勘兵衛だとする説もある。

先行文献にきちんと言及してその先見性やオリジナリティを尊重しないのは盗作か不勉強(..)

[追記]
杉本苑子『冬の蝉』(文春文庫,1988→新装版2006)読了(^^)「墓石を打つ女」「菜摘ます児」
「礼に来た幽霊」「冬の蝉」「ゆずり葉の井戸」「嫦娥」「仇討ち心中」「仲蔵とその母」を
収録した短篇集で、英雄豪傑活劇タイプの時代小説ではないけれど、どの作品も良かったし、
本書が取り上げていた史実を基・背景にした数篇はヨリ面白く読めた(^^) 個人的な趣味では、
「嫦娥」が気に入った(^^) 以下、少々ネタバレにはなるが、三弦の名手である原武太夫盛和
(原富五郎、原富)が三味線の音色の異常から津浪の来襲を察知した冒頭の逸話は、森銑三
『偉人暦』上(中公文庫,1996)293~295頁の「七月九日 原武太夫」の項にも出ていたけど、
千瀬(遊喜、安祥院[家重側室])との絡みは杉本の創作なのかな(^_^;) また、森によると
原は「放蕩者」だった由(同294頁)、杉本はキャラ設定を改変して面白い物語を拵えた(^^)
なお、月岡芳年『月百姿』に「嫦娥奔月」と題した作品があり、+αもあるけれど、これも
先行作品のパクリらしい(-_-) パクリ繋がりじゃないが、京扇堂ブログに原武太夫登場(^_^;)

「はなしの名どころ」という調査の行き届いた下記のサイトに辿り着き、三遊亭圓朝「名人競
[くらべ]」に原武太夫が出てくるのを知った(^^) だが、ヤボなことを言うようだが、圓朝は
原の逸話の津浪を有名な大火(1772年の明和の大火、目黒行人坂大火)に変えてしまってて、
これでは原の芸が神の域に達してたことが伝わらない上に人為的に起こせる大火(実際、放火
だった)では全くのナンセンスだし、また明和の大火は原が1736年に三味線を断った後の出来事
なので時代考証的にもありえん(+_+)
http://homepage3.nifty.com/nadokoro/toto/10/36meguro.htm

下記の「三遊亭圓朝のブログ」の「名人くらべ」をテキスト化した労作を拝読させて頂いたが、
「昔明暦の大火事の時目黒の行人坂《ぎょうにんざか》から出た火事を・・・」とあり、もし
作成者の誤植でなけりゃ、歴史上有名な明暦の大火(1657年)と明和の大火(目黒行人坂大火)
を一緒くたにしてて論外(^_^;) また、明暦の大火は原の生年が1697年なのでありえん(+_+)
http://blogs.yahoo.co.jp/encho_blog/33854858.html

百目鬼恭三郎『奇談の時代』(朝日文庫,1981)に当たったら、同書58~59頁に三味線の名人の
原某が津浪を予知した逸話、それが大田南畝『仮名世説』に載っていることが紹介されてた(^^)

日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成 第二期 2』(吉川弘文館,1973)所収の大田南畝『仮名
世説』の該当箇所(同書248頁)を閲覧(^^) 「巧芸」という項目の1つとして、「原氏某」の
逸話として紹介されていたが(内容は百目鬼が紹介した通り)、「津浪」という言葉は無くて
「海嘯」という言葉が使われていた(森・前掲書293頁は「津浪」と「海嘯」の両方を使うも、
後者には「つなみ」と振り仮名)。今読んでいる金子史朗『世界の大災害』(中公文庫,1988)
99頁によると「また、津浪を海嘯[つなみ←振り仮名]と呼ぶのは誤りで、これはラッパ状に
開いた河口における高波のことである。」南畝がこのように厳密に使ってるか不明だけど(^_^;)

下らない雑用ばかりで本も読めない今週(;_;) 国勢調査のネット回答が既に始まっていた事実を
17日にヤフーニュースで知り吃驚(*_*) 拙宅にはネット回答はおろか国勢調査関係の通知など
全く一切届いてなかったので、慌てて地元自治体の関係部署に電話した(+_+) 隣人に訊ねたら
届いてたので、小生から連絡していなかったら、おそらく手書き回答の書類も拙宅だけ届かず、
国勢調査なのに洩れが生じてたね(-_-) 翌日すぐ調査員が平謝りで届けに来たけど役所提供の
の地図を見せてもらったらソレが古い地図で拙宅の建物&住居番号が記されてなかった(`^´)
同じように洩れてしまった人がいても大勢に影響はないだろうけど、ザ・お役所仕事だね(-_-)
気分転換に買物(^_^;) 前から探してた松田毅一(新聞の訃報欄でのお亡くなりになった場所に
少々ショックを受けた記憶)『南蛮巡礼』中公文庫がブックオフで108円で買えた(^^)v 近くの
某有名古書店に寄ったら1080円の値が付いてた(^_^;) また非売品ゆえ入手を半ば諦めてた
『海音寺潮五郎未刊作品集』全4巻も6561円でネット購入(説明には無かった製本上の瑕疵が
あったけど許す)(^^)v のんびりと味読したいとこだが、当分は無理そうだな(;_;) とはいえ、
松井今朝子『仲蔵狂乱』(講談社,1998)読了(^^) 杉本の2篇(随筆&短篇小説)を既読ゆえ、
気が抜けたサイダーの感も前半あったが(勿論、同書の所為に非ず)、まぁ面白く読めた(^^)
後半は『鼻紙写楽』を思い出させるシーンが何度もあって興味深かったけど(みなもと太郎の
『風雲児たち』で御馴染みの土山宗次郎も出てきた)、両書のエピソードがそっくりなのは、
ともに仲蔵の日記あたりをタネ本にしたがために生じた疑似相関のようなものなのかしら(..)
と思ったら、改めて『鼻紙写楽』を枠線外も注視しながら読み直すと、ちゃんと「参考資料」
として『仲蔵狂乱』が明記されてた(^_^;) でも、ノンフィクションではなくフィクション=創作物
である他人の作品=小説を、原作・原案ではなく参考資料とする漫画というのもありなのかね(..)
閑話休題、宮城谷昌光の本に付いてるような簡単な登場人物一覧表が巻頭にほしいね(^_^;)
仲蔵の妻おきしの病床での台詞「おさなちゃんの気持ちは、前からよおくわかっていました。」
云々は唐突で不自然な感じがしたけど、これは単に小生が伏線とかを見落としたのかな(^_^;)

中川右介『悲劇の名門 團十郎十二代』(文春新書,2011)を読了し、大変勉強になったm(__)m
すっかり忘れてしまったので、この著者ので既読なのを手帳の読書記録からメモっておく^^;
〇『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書,2007)
◎『カラヤン帝国興亡史~史上最高の指揮者の栄光と挫折』(幻冬舎新書,2008)
〇『カラヤン 帝王の世紀~孤高の天才指揮者、波乱の100年』(宝島社新書,2008)
〇『昭和45年11月25日~三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書,2010)

[追記151128]
偶々、文藝春秋編『エッセイで楽しむ日本の歴史』上(文春文庫,1997)を開いたら、永井路子
「実朝暗殺の真相」も収録されてて付箋も貼られてたが、読んだ記憶なし(+_+) 同書509頁で

  が、幸いにして、歴史の専門家の方々(五十音順にあげるならば石井進氏、上横手雅敬氏、
  大山喬平氏、貫達人氏)がこの考え[永井による義村黒幕説]を評価して下さった。いまや
  北条仕掛人説は過去のものになろうとしている。

とし、〈筆者が推薦する本〉に大山の前述の本を挙げてて、同書は小学館の1974年刊の由(^^)
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