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西牟田靖『本で床は抜けるのか』

著者の境遇には同情した(;_;) でも、失礼な言い方だが、
小生には読む価値も買う価値も無い代物だったよ、
西牟田靖『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社,2015)は(+_+)

宙花こより『マンガでわかる!片づけ+収納術』を2015年5月11日に取り上げた際、

  床が抜けそうで心配な蔵書の持ち主がそんなにいるの?
  単なる好奇心だよね?こんなに予約者が多いのは^^;
  西牟田靖『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社,2015)
  を小生が借りられるのは半年以上先になりそう orz

と書いたが、予約者数が多くなり、図書館が複本を購入したため、3ヶ月後に借りられた(^^)v
人の好さそうな著者でも「買いもしないで、冒頭の暴言は何なんだよっ!」と怒りそうだが、
小生も予約したおかげで印税が増えた・・・のかも、ということでm(__)m 1冊分だけど(^_^;)

本書の「はじめに」で「著者はそれほど熱心な本読みではなかった。」と言いつつ、「しかし、
資料が必要な執筆をするようになってからは、必要にかられ、蔵書を急激に増やしていった。」
由(本書8頁)、そこから「床抜け問題」という不安が生じ、本書の基になった連載の執筆へと
至る、と。でも、書名に釣られて読了した今、〈床が抜ける抜ける詐欺〉に遭った気分(^_^;)
1枚も床の抜けた証拠写真ないし、床が抜けたという事例の紹介は伝聞証言で真偽不明(+_+)
なお、本書を読んだ限りでは、著者の蔵書は大した量ではなく、床抜け問題も杞憂かと(^_^;)
他の全著作を読めば、その蔵書量も想像できるだろうけど、正直もう読む気にならんよ(-_-)

文才に自信があるのか、そもそも本書は説明のための写真が僅かしか使われず、蔵書・本棚の
状況や間取りの説明・描写はほぼ文章だけでなされてて、読んでもイメージ出来なかった(+_+)
取材で聞き取った情報に基づいて「河童が覗いた」シリーズ風に書庫や蔵書のある部屋の本棚の
種類・配置等を「妹尾河童ばりの緻密なイラスト」(本書61頁)で再現して読者に分かり易く
伝えるというアイデアぐらい思い浮かばんのかね(..) 本書は全てにおいて安直な本だよ(^_^;)

更に本書にがっかりさせられた点はSNSやインターネットで情報収集という取材方法(+_+)
だから、取材範囲は著者の「周り」や「近しい人」、知り合いの知り合い程度みたい(^_^;)
個人による蔵書管理の問題は昔(平安時代!)から読書家・読書人の悩みの1つなんだから、
それを論じた本や雑誌(の特集)はメチャ多い(^_^;) このテーマにちゃんと取り組むなら、
国会図書館や蔵書の多い公共図書館、大学図書館、大宅文庫等でローラー作戦を展開するのが
定法でしょう(^^) でも、そーゆー作業を「面倒くさい」(本書232頁)と著者は思ってるので
易きに流れてしまい、本書の内容も薄っぺらくなっちった(+_+) 例えば、地震と蔵書の章まで
本書は設けてるけど、読書家&蔵書家と誰もが認めた谷沢永一の「阪神大震災 わたしの書庫
被災白書」(ノーサイド1995年5月号8~13頁)なんか読み応えあるのに、著者のネットワーク
には引っかからなかったみたいね(^_^;) 被災直後に新聞に書いたら、司馬遼太郎から速達で
届いたという「適切な指示」「至れり尽くせりの御配慮」も紹介されてて、ホントいいよね(^^)

蔵書管理、特に床抜け問題を論じる際は蔵書を構成する書物の判型や重量が鍵のはずで、
文庫本、新書、コミック本などと、重厚な専門書や洋書(ペーパーバックに非ず)、更には
大辞典、百科事典、大判の美術書・画集・・・等々を一緒くたにして、「仮に厚さ2センチの
本だと・・・1冊250グラムとして・・・」(本書24頁)などと計算してもナンセンス(+_+)

以下は、気になった点を少々(^_^;)

本書119頁

  [スキャン後に]抜けたページがないか10冊に1冊ぐらいの割合で確認していきますから。

著者が取材した自炊代行サービス業者のスタッフの説明だけど、この業者はスキャン後の原本を
廃棄する点では筋が通ってるけど、こんな品質管理なら恐くて依頼する気にならんだろ(^_^;)

本書169頁

  紙と電子媒体とでは読み方に違いがある。というのも、紙が基本的に印刷されたものだけで
  完結する閉じた媒体であるのに対し、電子はネットを遮断していない限りは無限にリンク
  していて読み手の意志でそのリンクをどんどんたどっていける媒体である。

これは考え抜いた上での論述なのかな? それとも、単に著者は馬・・・じゃなくて、素朴なの?
もしかして間テクスト性(インターテクステュアリティ)とか、著者は御存じないのかしら(*_*)
ま、別に、そーゆー概念を知らなくても、こうやって本や読書に関する本は書けるけどね(^_^;)
でもさ、こうやって紙の書物は〈開かれたテクスト〉としての「読み方」ができないと書くのは
自らの読書経験の貧しさを告白しているのと同じだよね(^_^;) フツー本を読んでりゃ〈あれ!?
この件は、引用はされてないけど、あの古典を下敷きに書かれてるよなぁ・・・こっちの一節は
師匠の論文の影響をモロに受けてんのバレバレ・・・あの論文で参考文献として挙がってたのは、
たしか・・・〉といった風に、読み手が蓄積してきた〈脳の中の蔵書群〉に網(ネット)の目の
如く張り巡らされた回路を、読み手の意志に関わりなく思考が連結(リンク)してっちゃう(^^)
この思考運動は無限に近くないか(^_^;) しかも、現実の蔵書群チェック後は、書店・図書館へ
誘われ未知の文献との遭遇(^^) 傍から見りゃ、林達夫的「てんやわんや」(Ⓒ庄司薫)(^_^;)

本書127頁

  一方、少女マンガとなると、「目の中に星がキラキラと入っている少女キャラクターが、
  現実離れした恋をする」というステレオタイプなイメージしかなく、買って読んだ経験は
  おろか、家にそれらがあった記憶もない。読んだことがあるのは、学年誌の『小学○年生』
  に載っていた『うわさの姫子』シリーズ、そして男の子向けのマンガ雑誌に載っていた
  『うる星やつら』や『あさりちゃん』ぐらいのもの。『ベルばら』すら読んでいない
  のだから、まったく読んでいないも同じである。

『うる星やつら』が少女マンガ??? 『あさりちゃん』が連載されていた「小学二年生」は
「男の子向けのマンガ雑誌」??? たしかに「月刊コロコロコミック」にも2年半だけ掲載
された時期もあったようだけどね(^_^;) よく知らないことは、せめて調べてから書けよな、
と思うのだが、御本人は知ってるつもりだから、調べないんだろうね(+_+) しかし、これで
「ノンフィクション作家」と称して何冊も本を書いてるんだから、泰平な世の中ですな(^_^;)

本書を読み終えると、ある本の書名が自然と想起されたので、書庫の本棚の奥から出したのが、

金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』(日本文芸社,1989)(^_^;)

同書は既に過去記事への「追記」で使ったけど、金井のユーモアと毒舌が炸裂しまくってて、
本書読了後の口直し(失礼!)&締めとして、前に読んで大笑いした件を2つ引用する(^^)v

同書211頁(高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』の書評)

  『優雅で感傷的な日本野球』や『さよならギャングたち』や『ジェイムズ・ジョイスを
  読んだ猫』というタイトルは、そういっちゃあ、「本質」をつきすぎてるかもしれない、
  と本気で思ってるわけじゃないけど、東海林さだお、じゃなくて、えーと、ほら、今は
  全然何も書いてない、ピアニストが奥さんで「猫語」を喋れる人の小説のタイトルに
  似てない?むろん、内容は違うけどね。

同書に挟み込まれてる「付録」の「著者特別インタヴュー」(聞き手:武藤康史)10頁

  「朝日ジャーナル」のブック・ガイドを読んでたら、村上龍のインタヴューが載っている。
  あの人は何も知らない人で――小説家としては珍しくはないけどね――、「小説を読んだ
  からといって小説を書けるものじゃない」って言っているんですね。映画だって、観てな
  くても撮れるわけだけど、でも、あんなものしか撮れないでしょう。/それは確かにそうで、
  読まなくても小説は書けるわけですよね、もちろん。だからお前みたいな小説になるだろう
  って言いたい(笑)。

過去記事への追記を随時してるが、中には元記事より追記の方が長くなったのも(^_^;)

[追記]
「精神史~一つの方法序説」(中川久定編『林達夫評論集』[岩波文庫,1982]所収)を
見直したら、林達夫自身が「てんやわんや」と表現(同書280頁)していたことを受けて、
庄司薫は林達夫『共産主義的人間』(中公文庫,1973)の「解説」でソレを使ったことに
気付いた(^_^;) 付箋を貼ってても、寄る年波には勝てんわ(+_+)

[追記151206]

岩波文庫編集部編『私と岩波文庫~忘れえぬ一冊』(1997)非売品をゴミ部屋で発見した(^^)
巻頭の串田孫一「数知れない岩波文庫の想い出」に興味深いエピソードがあった(同書6頁)。

  ・・・或る時、都心の大きな書店へ漠然と入ろうとすると、林さんは本の紙包みを抱えて
  その店から出て来られた。私は本探しはまた別の機会にして道を歩きながら話をした。/
  林さんは半月前に或る本の短い書評を頼まれた。その翻訳が出て読んでみると訳文に
  幾つかの疑問点が見つかり、原典を買って読み比べているうちに、この原著者の考えを
  彼の別の本で確かめたくなったので、それをひと抱え買われたところであった。そういう、
  いい加減のところで妥協できない性分であることは前々から感じていたが、果たして
  性分として片附けてしまっていいものか。批評精神を研ぎ澄まして行くとこうした結果に
  なるのか。私には何とも言えない。

イメージ通りの林達夫だけど、たしかに林の「性分として片附けてしまっていいものか」^_^;

  ・・・アカデミックなにおいもしないではないが、巻頭にある〈批評の現在〉という
  対談を読むと、浅田彰のツッコミが痛快、まるでインテリ版〈噂の真相〉で、
  笑ってしまった。

小林信彦『本は寝ころんで』(文春文庫,1997)135頁にも斯くウケてた、リテレール創刊号
(1992年夏号)の高橋源一郎との対談での浅田彰の次の発言(同誌12頁)を連想した(^^)

  浅田 ・・・音楽批評について言えば、僕みたいな者ですら、音楽について書こうとする時は
   スコアを一回チェックしてから大抵はピアノで弾いてみる。大体の構造がこうで、ここと
   ここが技術的な難点で、こことここが聴かせどころ、みたいなことを確認するわけ。
   それから、いままでの聴取体験みたいなものもあるので、カラヤンやバーンスタインは
   どうだった、カラスやシュヴァルツコップはどうだった、みたいな記憶を思い出したり
   する。それで、とりあえず聴いて、書くわけですよ。ところが、いまの日本の音楽批評家
   には、スコアも読めないし、ピアノも弾けないヤツがいる。その上に、これだけは聴いて
   おいた方がいいという記念碑的な演奏も聴いてない。こんな人たちが印象を書いちゃう
   わけよ。そんな文章って、まず分析も駄目だし、第一、そんな奴の印象なんて聞いたって
   何にもならないからね。

  高橋 本当は、印象がないんだよ。(笑)

  浅田 そうそう、ないの(笑)。印象批評を書けるのはやっぱり吉田秀和くらいでしょう。・・・

本書の著者は「面倒くさい」として調べないけど、まともな著者なら苦労して調べて一冊書き
上げたわけだから、それを書評する側も林達夫や浅田彰のように臨むべきかと(^^) 調べずに
印象を書くだけなのは〈アンタ何様?〉的な書評だよ^_^; まして一般人によるものなら^_^;

  高橋 ・・・文芸誌の書評って、本当にひどいのが多い。

  浅田 ひどい、ひどい。

  高橋 大体自社本が中心で、しかも褒めまくる(笑)。あんな評なら載せない方が
   いいくらいだよね。

  浅田 また、いわゆる団塊の世代の批評家というのが、ひどいんだよな。まず七割が
   めちゃくちゃ下手な紹介だからね。勘どころは把んでないし、構造も分からない。
   それで終りは必ず「この作品は私の心に響いた」とか何とか。お前の心に響いたって
   関係ないよ。(笑)

  高橋 いますごく怒った顏したよ。(笑) 

  浅田 小林秀雄の心に響いたんならまだしも、チンピラ批評家の心に響いたからって、
   何なの? 天才じゃないんだから、極めて凡庸かつ啓蒙的に書いてほしいね。・・・

この同誌11頁の件は、団塊に限らず、また一般の雑誌や新聞などの商業メディアの書評にも
当てはまるわな(-_-) 宣伝、太鼓持ち、仲間褒め(←非商業的だが学会誌に多い!)に加え、
書評者の不勉強(+_+) せめて関連書ぐらい参照してから書けよな(`^´)おバカタレント
みたいにバカを売り物にする商売の一種か^_^;見る目がないことも商品になる資本主義^_^;
林達夫や浅田彰のように調べることもなく「心に響いた」系の感想を綴るパンピー(死語)の
読書ブログも・・・所詮は自己満だが、「心に響」くと誰かに聞いてもらいたくなるからか^_^;
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