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冨谷至『四字熟語の中国史』

〈四字熟語でたどる中国史〉と早とちりしてポチったら、
目次を見てがっかりも、読むと面白くタメになったのが、
冨谷至『四字熟語の中国史』(岩波新書,2012)。

井波律子『故事成句でたどる楽しい中国史』(岩波ジュニア新書,2004)の類書かと(^_^;)
ちなみに、井波の同書156頁(第2刷)の叙述にある

  ・・・翌五八一年、北斉を滅ぼしてみずから即位し(文帝)、隋王朝(五八一~六一八)を
  立てるに至ります。

この「北斉」は(同書巻末11頁の年表にもあるように)「北周」の誤り(^_^;)

塚本青史『四字熟語で愉しむ中国史』(PHP新書,2010)も予約してみたけど、
PHP新書だから、齊藤貴子『肖像画で読み解くイギリス史』(2015年6月5日)に続き、
また騙されたりして(+_+) 塚本青史『呂后』(講談社,1999)は面白かった記憶あるけど(^_^;)

閑話休題、冨谷至『中国義士伝~節義に殉ず』(中公新書,2011)も併読したけど、
蘇武(前漢)、顔真卿(唐)、文天祥(南宋)の列伝で、非常に面白かった(^^)
同書のポイントは「終章~正気の歌」(同書205~206頁)に曰く、

  蘇武、顔真卿、そして文天祥、すなわち彼らが守り通した責務、妥協できなかった価値観、
  それは彼らがそれぞれ異なる「義」に依ったからに他ならない。/蘇武にあっては、
  任侠的信義(節侠)であり、顔真卿にあっては、血統が受けついできた士大夫の学知・理知
  とそれに基づく行動であり、そして文天祥にあっては、進士及第状元の経歴とその経歴に
  期待される責任と誇りであった。

蘇武と対比するためか李陵に厳しすぎる感もあるけど最終頁(同書59頁)で救われた(^_^;)

顔真卿の章は半ばまで顔真卿が登場しないのは予想通りだが、書家の面が全く紹介されず、
「あとがき」(同書210頁)に僅か一行、「また顔真卿の書は、我が国の書道教育の模範と
なっており、剛直の意志がその楷書体に具現化されているといわれる。」とあるだけ(..)
日本は王羲之が主流ゆえ顔真卿が評価されるようになったのは最近とwikiにあるけど(^_^;)
駒田信二『中国書人伝』に載る顔真卿の千福寺多宝塔感応碑(部分)は素人目にも美しい(^^)

両人には感銘も文天祥はダメ(+_+) 「彼の行動は常に気負いがあり、ともすれば空回りをし、
立て板に水を流す如くに論理を展開するが、そこには現実をふまえた寛容さがなく、呂文煥を
はじめとする投降者の事情・心情を認めようとはしない・・・」(同書197頁)からね(..)
「・・・学歴社会の悪しき弊害・・・」(同書209頁)とは思わんし、科挙の凄さも(同書147~
154、194~195頁)、その首席=「状元の栄誉に輝いたものは、中華世界の第一人者・・・」
(同書195頁)なのも理解したつもりだけど、「我は南朝の状元宰相なるぞ」(同書171頁)と
自分で言うのはねぇ(^_^;) 他人から言われるならまだしも、痛いよね(+_+) 学歴だけが
レーゾンデートル(同書192頁)みたい(^_^;) なのに「・・・ことほど左様に、後世の人々は
文天祥の死を悼み感動をもったのであった。」(同書191頁)とあるから、趙孟頫の評価が
下がっちゃうわけだよ(;_;) 玄妙観重脩三門記なんか素人でも素晴らしい書と分かるのに(^^)

なお、同書はケアレスミスが結構ある(+_+) 例えば、同書83頁に、

  開元二十四年(七三六)十月のこと、洛陽から長安に玄宗は行幸しようとした。

これは「長安から洛陽に」の間違いでしょ(^_^;) だって、同じ頁の4行後に

  しかし、どうしても洛陽に行きたいと思っている玄宗の胸のうちを察して、・・・

とあるし、あるいは同書87頁にも

  玄宗の気まぐれの洛陽行幸のための減税、・・・

とあるんだから(^_^;) また同書142頁には、

  前秦、前晋という中国の王朝名に因む五胡の国家、・・・

五胡十六国には「前晋」なんてないよ(+_+) 前晋は五代十国の後唐の前名でしょ(^_^;)
あとメチャ細かいことだけど、同書146頁に

  ・・・その後の三十余年に及ぶ波状的ともいえる[モンゴルによる宋]攻撃の序曲・・・

「四十余年」ではないか(^_^;) こんな感じだから安心して叙述に思考を委ねられん(^_^;)

再び閑話休題、本書は「だれでも知っている熟語の歴史的背景、意味の変遷といったこと
に言及する歴史文化紀行」(本書vii頁)の由(^^) もともと文化講座での講義らしいので、
研究余滴とか学界余滴に当たるんだろうけど(複数の学会の会長も歴任した偉~い先生が、
これらの言葉を御存じないのか、御著書で厳かに別の言葉で命名してたのには驚いたね)、
こういう知的興奮を味わえて、余韻も残るような好著は、ぜひ続篇を読みたいもの(^^)
著者の学識なら『パイプのけむり』みたいに、いくらでもシリーズ化できそうだし(^_^;)
でも、既に「だれでも知っている熟語」でもなさそうだし、売上が期待できないか(+_+)

ちょっと思い出したから、メモっておくが、
丸谷才一「性的時代」(同『夜中の乾杯』[文春文庫,1990]所収68頁)に、

  学海余滴といふものがある。わかりやすく言ふと学者の随筆ですね。偉い先生が
  専門の研究の合間に書いた、こぼれ話のような随筆のことで、わたしはこの手の文章を
  読むのが好きだ。煙草をすひながら学問のエッセンスを楽しめる。無学な人間が
  学問のウンノウを垣間見ることができる。

とあるけど、「学海余滴」だと依田学海の著書名になっちゃうよね(^_^;)

後日のために、本書の目次に載っている四字熟語・四字句をメモっておく(^^)

温故知新,葦編三絶,盗泉之水,糞土之牆,守株矛盾,宋襄之仁,不射之射,風林火山,
酒池肉林,臥薪嘗胆,四面楚歌,曲学阿世,乱世姦雄,親魏倭王,天知神知、我知君知,蛍雪之功

それぞれ典拠となった話は知ってたけど、語義・解釈をめぐる論点や学説など面白かった(^^)
ちょっと調べたら(本書の指摘通り)幾つかの辞書にも不正確な語釈が載っていたけど、
現在日本語として定着してるから仕方ないだろうね(^_^;)

本書にインスパイアされて読み直そうと、とりあえず思い付いた本のリストもメモ(^_^;)

宋襄之仁→吉川幸次郎『漢の武帝』(岩波新書,1949→63改版)
不射之射→林達夫『共産主義的人間』(中公文庫,1973)181~182頁(庄司薫「解説」)
        中島敦『李陵・弟子・名人伝』(角川文庫,1968)
酒池肉林→宮城谷昌光『太公望』上・中・下(文春文庫,2001)
乱世姦雄→渡邉義浩『三国志~演義から正史、そして史実へ』(中公新書,2011)
        川合康三『中国の英傑④ 曹操~矛を横たえて詩を賦す』(集英社,1986)
親魏倭王→宮崎市定『隋の煬帝』(中公文庫,1987)132~135頁
天知神知、我知君知→宮城谷昌光『三国志』第一巻(文春文庫,2008)
蛍雪之功→上野誠『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川選書,2013)

勉強になった点は多いので、とりあえず個人的に必要な点のみメモ(^^)

本書8~9頁(温故知新)&本書98頁(風林火山)
やはり徂徠は凄かった(^_^;) 「漢籍の読みには卓抜した才能をもっていた碩学」(本書98頁)

本書15頁(葦編三絶)
簡牘(木簡・竹簡)は隋唐時代(6,7世紀)には消えたが、20世紀初頭にヨーロッパの探検隊が
楼蘭、敦煌、居延などのシルクロード一帯の漢代軍事基地=烽燧の遺跡から木簡を発見して
以来、簡牘は内地の古墓や辺境の遺跡から陸続と出土している。

 → 岩切友里子(編著)大蘇芳年(画)『月百姿』を2015年4月25日に取り上げた際、
   作品「読書の月 子路」で紙の冊子本が描かれているという時代錯誤を指摘して、
   月岡芳年の定評ある時代考証に疑問を呈したわけだけど、当時は木簡・竹簡の現物を
   知り得ず、概念(葦編三絶もそうかな)でしか知り得なかったことになるね(^_^;)

本書32~34頁(盗泉之水)
「礼が心情の具現であるように、名称は実体の具現」で、「いい加減な名称はその内容の
いい加減さを招来する、だから名称は重要」(本書32頁)という孔子、儒教の考えは、
「名称、形式が実体を確定するという思考にも繋がっていく」(本書33頁)。
「形式、名称重視の孟子」(本書34頁)。

本書66~67頁(宋襄之仁)
評価の基準として、『春秋公羊伝』は動機重視、『春秋左氏伝』は結果主義。漢代の初期は
公羊学が主流で、司馬遷もその師(本書144頁によると董仲舒)が公羊学者であったからか、
『春秋公羊伝』の主張に傾斜する(『中国義人伝』11頁は「では、なぜ春秋公羊学が他の
春秋学をおさえて採用されたのか。そこにはいくつかの理由があろうが、私は武帝の対外政策
つまり匈奴戦争に春秋公羊学が強力な中華意識を提供したからだといいたい。」)。しかし、
次第に左氏学が盛行した由。

本書92頁(風林火山)&本書160~161頁(乱世姦雄)
副葬簡牘の目的は「墓主の地下での眠りを妨げる悪霊、邪気を追い払う魔除け(辟邪)のため」
(本書160頁)が著者の説。

本書43頁(糞土之牆)&本書191~197頁(蛍雪之功) 
「いったい漢文(中国古典文)は、万人が理解することを前提として書かれたものではなく、
学問の根柢と知識の広範を必要とする読書人の文章である」(43頁)という「漢文の特異性」。
『中国義人伝』120~121頁にも同旨。

この漢文に関して、連想(あくまで連想にすぎない)したことをメモっておく(^^)

先ず中村真一郎が『頼山陽とその時代』を「あちこちの雑誌に連載」した際(『私の履歴書』
[ふらんす堂,1997]125頁、『全ての人は過ぎて行く』[新潮社,1998]123頁による)、

  その連載が始まると、突然に未知の吉川[幸次郎]教授から、私の無智による誤りを
  指摘した、難読極まる筆跡の手紙が到来し、それはこの連載のおわるまで、十回以上に
  わたった。/教授は・・・近世日本人の漢詩文の類いは、間違いだらけで読む必要がない
  として、身辺から意識的に遠ざけていたので、・・・

この後に吉川教授による「私の夢想もしなかった[京大人事]計画」が語られるが割愛(^^)

次に、意味深な書名がつけられた高島俊男の『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫,2008)に
収録されている「露伴『運命』と建文出亡伝説」で、

同書114頁

  『運命』の大部分は、『明史紀事本末』を書きくだした―つまり訓読した―だけのもので
  ある。/『運命』発表当時、これを露伴一代の傑作だと言う人が多かった。名文だという
  のである。/これは大正のなかばすぎにはもう漢文の素養がない人が多かったことを示す
  もので、おもしろい現象だ。

同書118頁

  ・・・『運命』は作者自身の書いた部分は比較的すくなく、大部分は史料のひきうつしで
  ある。『運命』をほめる人は、たいていその文章をほめる。「露伴はこう書いている」と
  引用して賞讃し、読者にも感服をもとめているが、実はそれは、史書を訓読しているだけ
  なのである。

なお、東洋史家(明治34年生)である植村清二「「運命」伝説について」同『歴史と文芸の間』
(中公文庫,1979)所収98頁は流石に見抜いていた(^^)

  全篇を通覧すると、「明史」の列伝などによって筆を着けたところも多いが、中心となる
  建文帝の出亡に関する叙述はほぼ「明朝紀事本末」の建文遜国の章に拠っている。その
  章句をそのまま用いている部分も少なくない。

でも、植村のも念頭にあったかは不明だが、高島は『明朝紀事本末』とは『明史紀事本末』の
「和刻本の題」であるとして、「露伴に似ぬ手落ちだが、『運命』絶讃評論家連がいっせいに
右にならえして[露伴と同様に]『明朝紀事本末』と書いているのはお笑いだ」(同書133頁)
と手厳しい(^_^;)

同書159~160頁

  概して、漢文口調の荘重体をむやみにありがたがるのは、西洋文学を専攻した人におおい
  ようである。西洋文学を専攻した人が漢籍や漢文のことをよく知らないのはわたしどもが
  西洋のことに無知なのとおなじく当然のことで、別にはずかしいことでもなんでもない
  のだが、そこに何かコンプレックスがあって、そのおおいかくしなのかうらがえしなのか、
  知ったかぶりをしたり、やたらにもちあげてみたりするのであるらしい。/なお、やや古い
  ところでは、谷崎潤一郎や斎藤茂吉が『運命』の文章に感激したこと、それに、小泉信三が
  養育係として皇太子(現天皇)とともに『運命』を音読したことがよくひかれる。/これは
  おもしろい現象だ。たとえば、坪内逍遥、三宅雪嶺、森鷗外といった幼少時に本格的な
  旧時代の教育をうけた世代の文学者が、『運命』のただの訓読文や「天耶時耶」式俗悪文に
  感激することはありえない。谷崎、茂吉、小泉などの明治うまれは、はじめから明治の近代
  教育をうけた世代なのである。この人たちにとっては『運命』の文章は異物であり、ゆえに
  新鮮であり、こどものころの漢文の教科書でならった「名文」の塁を摩するものと感じられ
  たのであろう。
  
同書166頁

  小泉[信三]も河盛[好蔵]も昭和期の人だが、この世代の知識人はもうダメなのである。
  ダメだと自覚すればだまっていればよいのに、わかったふうなことを言って馬脚をあらわす。
  
同書205頁

  露伴も『運命』ではしくじったが、それよりなおみっともないのが、『運命』を絶讃した
  評論家連である。日本の知識人は日本と西洋のことを言ってればいい。わかりもしない
  漢籍について知ったかぶりをふりまわすのは聞き苦しい。

売れっ子の研究者が隣接分野のことまで言及しているのを当該分野を専門とする者から見ると、
「だまっていればよいのに、わかったふうなことを言って馬脚をあらわ」したり、「わかりもしない
×××について知ったかぶりをふりまわすのは聞き苦しい」と思うことは多々ある(^_^;)

[追記]
ポイントを使ってタメになる本でも買おうと昔の手帳の読書記録を調べて吃驚(*_*) 2010年に
井波律子『奇人と異才の中国史』(岩波新書,2005)が記録されてたけど、読んだ記憶なし(+_+)
井波前掲書も同じ月に記録されてるから、同書も併せて読了したのは間違いないみたい(^_^;)
そこで同書を再び借りて最初の方の数人を試しに読んでみたけど、やはり記憶になかった(;_;)
同書が取り上げた56人(と「まえがき」にはあるが、これは「竹林の七賢」を1人にカウントしてて、
正確には62人)の名前は岩波書店の下記HPが紹介(^^) 初読時には関心がなく、中には
名前すら知らなかった人物もいたけど、最近のマイブームの人物だけじっくり読み直した(^_^;)
同書は「まえがき」にもあるように文字通りの「小伝」で、コンパクトに纏められてて良い(^^)
でも、小伝ゆえ仕方ないけど、各人物を過不足なく描き切れてるかといえば、疑問と不満(+_+)
先ず(些細なことだが)不正確な記述から指摘しておく(^_^;) 王羲之を取り上げた同書49頁に

  彼[王羲之]は・・・王導と王敦の従子にあたる。

井波前掲書144頁にも「・・・王導と王敦の従子にあたります。」とあり、ともに「従子」には
「おい」と振り仮名を付けているが、これは間違いで、「従兄弟の子」or「従甥」が正しい(+_+)
『晋書』「王羲之伝」の冒頭にある「司徒導の従子なり」という記述を真に受けたのだろうが、
そもそも王導を取り上げた同書46頁で「・・・王導と・・・従兄の王敦・・・」として(前掲書
143頁も同様)、王導と王敦の関係を従兄弟(←これは正しい)としておいて、その両人の甥など
ありえないだろ(^_^;) 王導と王敦は兄弟じゃないんだから、共通の甥は存在しえない(+_+)
王羲之の名前も出ている名門「琅邪の王氏」の系図とか見たことないのかしら(^_^;) 加えて、
この王羲之を取り上げた同書49~51頁のどこにも、王羲之の真筆は1点も現存していないことが
記されていない一方で、同書51頁に、

  王羲之の書より「蘭亭序(神龍本)」(部分)

とキャプションを付けた画像を載せるのは、読者をミスリードしないだろうか(^_^;)
次に、趙孟頫が同書114~116頁に取り上げられているが、同書115頁で、

  ・・・漢民族王朝南宋の皇族の身で、モンゴル王朝元の五人の皇帝に信頼され、
  中央・地方の要職を歴任したこと・・・

あるいは、夫人に管道昇という「またとないパートナー」(同書116頁)を得たことを紹介し、

  ・・・破格の幸運に恵まれた生涯を閉じた。ときに六十九歳。

と趙孟頫の小伝を〆ているのは、歪めてるとまでは言わないけど、趙孟頫の生涯を伝えてない
と思うね(+_+) 『中国義士伝』の件でも言及した通り、趙孟頫は生前から無節操な人物として
非難されてて、本人が一族からも大変厳しい対応をされたエピソードもあるし、wikiを見ても
「後世の評価は芳しくない」と書かれてる(;_;) 南宋を滅ぼした元王朝からの求めに応じて
宋王朝の子が元王朝に仕官して忠節を尽くしたのだから、当然だけどさ(^_^;) あと、趙孟頫が
書家として優れていただけでなく、「・・・画の分野では人物・馬・花鳥などを素材に次々に
名作を生み出した。」(同書115頁)とあるけど、『聊斎志異』に載っている趙孟頫の馬の画に
まつわる幻想的な話を(小伝の悲しさで梗概も紹介できないのは仕方ないけど)言及すらして
ないのは誠に残念(;_;) 以上は、全て駒田信二『中国書人伝』からの受け売りだけどね(^_^;)
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0502/sin_k218.html

追記に追記、てゆーか、意を尽くせなかったので補説・敷衍します(^_^;) 同書掲載画像の
蘭亭序(神龍本)は実は複製本なのに王羲之の真筆そのものと読者に誤解させはしないか、
という点に加え、伝存する蘭亭序の臨本、模本、拓本の中から神龍(半印)本をチョイス
したことも大丈夫かぁ、と素人なりに疑問を感じたのだ(..) 例えば、書の専門家である
田宮文平が蘭亭序を「名書巡礼〈中国篇〉」で解説(この人の解説はホント分かり易いね)。
http://www.all-japan-arts.com/meisyojyunrei/1410meisyo.html

  中国では、唐代以後、原本が存在しないにもかかわらず、模本、臨本、刻帖によって
  八百蘭亭といわれるほど普及し、現在に至るまでもっとも影響力をもった書である。

「八百蘭亭」だよ(^_^;) しかも、臨模の対象となった原本は同一のはずなのに、田宮曰く、

  さて、一見してはみな同じように見える蘭亭序の模本、臨本、刻帖であるが、
  よくよく見ると、それぞれ異なる風姿をもっているのが分かる。これも八百蘭亭などと
  称呼される蘭亭序の大きな特色である。

その代表的なものでよく挙げられる(wiki「蘭亭序」の項も)、八柱第一本(張金界奴本)、
八柱第二本、八柱第三本(問題の神龍本)、定武本を、王羲之特集の芸術新潮1998年10月号
24~25頁の画像で見比べると、実際それぞれ違うことがド素人の小生でも認識できる(^_^;)

んで、どれが王羲之の真蹟に近いかが問題になるけど、この神龍半印本に関して田宮は、

  しかし、そのあまりにも水際立った鋒先の故に、唐代の洗練された美意識が混入している
  のではないかと、ときに疑われもするのである。

前記芸術新潮でガイドを務めた石川九楊に至っては、「二流の職人による複製本であろう」
(同誌24頁)、「書に対する理解の浅い職人による双鉤塡墨で、感心できません。」(同誌
25頁)と酷評してるよ(+_+)

書道の専門家らしい方による「書道 蘭亭序 神龍本は2級品」と題したブログまで発見(^_^;)
http://blogs.yahoo.co.jp/qprsk436/755405.html
これは神龍半印本を実見した上で実作者らしい分析がなされていて大変興味深い内容m(__)m

んなわけで、井波が神龍本を選んでその画像を載せたこと自体どうなん?と思った次第(^_^;)
蘭亭序は王羲之の代表作とはいえ真筆にどれが一番近いか評価も定まってないのに1つだけ
画像を載せるのが読者のためになる? 例えば、古代日本を解説する歴史書が邪馬台国九州説
だけ示す地図を掲載するかよ(-_-) そもそも王羲之の真筆は1つも現存してないんだから、その
複製本の画像を無理に載せる必要なし(^_^;) 真筆は現存せずと一言記すべきだった(+_+)
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