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雑喉潤『三国志と日本人』

三国志の文章は日本書紀や太平記に引用・借用され、意外や
八犬伝にも!目から鱗も眉に唾つけて読まねばならないのが
雑喉[ざこう]潤『三国志と日本人』(講談社現代新書,2002)。

2015年5月12日に取り上げた安野光雅&半藤一利『三国志談義』で、
本書が言及・紹介されていて気になったため、借りて読んだ(^^)

実は著者の名前(だけ)は前から知っており、不思議に思っていた。
百目鬼恭三郎『乱読すれば良書に当たる』(新潮社,1985)103頁に、

  『三国志』がなかなか問題を含む史書であることを教えてくれたのは、[朝日]
  新聞社の同僚で、いま音楽記者をしている雑喉潤氏であったようにおぼえている。
  雑喉氏は、吉川幸次郎門下生で、陳寿の擁護論を書いている人である。

本書にも次のような記述がある。

  わたくしが京都大学で吉川幸次郎教授の教えを受けて卒業した・・・(154頁)

  ・・・吉川の自宅まで教えを乞いに行った。(157頁)

  大学で教えを受けた吉川・小川[環樹]両先生が・・・(166~167頁)

  [インタヴューで]・・・新聞社でのお仕事は音楽・オペラだと聞いています。(218頁)

吉川幸次郎門下なのに音楽記者??? それって適材適所な人事なのかしら(^_^;)

本書は我が国が三国志をどのように受容し関わってきたか、その歴史を辿っていて、
元ジャーナリストらしく漫画、ゲーム、人形劇、歌舞伎にも(一応)目配りが(^^)

ただ、巻末「関連年表」すらそうだが、網羅的に取り上げているわけではない(+_+)
例えば、取り上げる学術文献は、内藤湖南『諸葛武侯』、吉川幸次郎『三国志実録』、
狩野直喜『魏晋学術考』、岡崎文夫『魏晋南北朝通史』など京大教授か京大出身者
によるものばかり。これに対し、1964年に筑摩書房から出た植村清二『諸葛孔明』
(中公文庫,1985)の「参考文献」は、湖南の『諸葛武侯』の他、白河次郎(鯉洋)
『諸葛孔明』(1909)、猪狩又蔵(史山)『諸葛亮』(1913)、宮川尚志『諸葛孔明』
(1940)も挙げるが、これらを本書は取り上げない。取り上げる価値などないと
著者は判断したのかもしれないが、宮川『諸葛孔明』は2011年に講談社学術文庫に
収録された。そもそも植村『諸葛孔明』も本書は無視する。湖南『諸葛武侯』は
正統史料を踏まえて「反演義的」な諸葛亮論として本書では詳しく紹介されるが、
未完(劉備の崩御まで)に終わった作品である。同じ東洋史家の作品で、やはり
史実に基づき客観的な諸葛亮の全貌を描く植村『諸葛孔明』に言及すらしないのは、
学閥意識のなせるわざか(-_-) でも、宮川は京大出身だから、んなことないか(^_^;)

網羅的でない分、各章でトピック的に取り上げる各作品(花田清輝『随筆三国志』、
土井晩翠「星落秋風五丈原」、吉川英治『三国志』、柴田錬三郎『英雄ここにあり』、
陳舜臣『秘本三国志』などなど)が三国志を料理する様を、たっぷり紹介していて
読み応えのあるのも事実である(^^) 実際、植村・前掲書277頁の「解説」における
後藤均平の指摘で、太平記の新田義貞夢想の段での三国志引用の事実は知ってたが、
本書55~60頁の著者による「いくらかの意訳を含めて口語訳」は興味深く読めた(^^)

また水滸伝を基にしていることで知られる滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が、実は
三国志をこんなに引用・借用していたとはマジ驚かされた(なお、高田衛『八犬伝
の世界~伝奇ロマンの復権』(中公新書,1980)77~78頁は馬琴の水滸伝翻訳経験
を指摘してる)。ただ、そもそも水滸伝自体が三国志を引用・借用してる事実は
本書では論じられてない。豹子頭林冲は容貌や得物から「小張飛」と形容されてた
はずだし、関羽の子孫と称する大刀関勝も登場する(佐竹靖彦『梁山泊~水滸伝・
108人の豪傑たち』[中公新書,1992]47頁も「林冲について注目すべきことは、
かれが、三国志の関羽の弟分である張飛をモデルとして創作されたことである。」)。

個人的には、飛鳥時代後期にもたらされていたらしい三国志が日本書紀の注の様式の
モデルになってたり、その文章が引用・借用されてたこと(第一章)、同じ軍記物語
なのに、保元、平治、曽我の各物語は史記からの引用はあっても、三国志は全く引用
されず、平家物語も三国志からの引用は一字もないらしいのに、太平記が三国志を
豊富に引用していること(第二章)などなど目から鱗で、勉強になりましたm(__)m

そんなわけで、学ぶことも多かったし、考えさせられた点もあった本書でした(^^)

とはいえ、以下に気になった点を挙げる(^_^;)

本書206頁

  ・・・横山光輝氏の劇画『三国志』・・・
  
本書208頁

  ・・・さらに劇画的でダイナミックなものとして・・・『蒼天航路』がある。

この節の見出しは「横山光輝の漫画」としてるし(本書206頁)、
フツー横山光輝の作品を「劇画」とは言わないだろ(^_^;)

と鼻で笑ってたら、ビックリ! なんと希望コミックス版巻末の紹介文には、
「日本でもっとも読まれている大革命ロマンの全劇画化・・・」だとさ(*_*)

なお、言及されてないが、横山は『三国志』の前に同じ潮出版社から『水滸伝』
第一部~第七部完結編(1969~1972)、第八部外伝(1976)を出してたのは有名。

本書109頁

  馬琴は大作家にならなければ、大学者になっていたかもしれない。
  これらの例は、学術論文に仕立てあげてもおかしくない。

諸葛亮が「船中に藁人形を多く立て、敵近く漕ぎ寄せて箭を射かけさせ、その数万本
を手に入れる話」は有名。でも実は陳寿の三国志には無く「・・・『唐書』を見ると、
これは唐の張巡の故事を、羅貫中が『演義』のなかに採用したのであることがわかる。
張巡は唐の忠臣である。安禄山の乱のとき、ひとり孤城を守って屈せず、ついに矢種
が尽きたので、藁人形を約千体つくり、黒い衣を着せて夜、城壁からつり下ろすと、
賊兵が争ってこれを射たため、箭十万本を得たと。『新唐書』第百九十二、忠義列伝
に見える。日本では千早城の楠正成がこれを見ならった」と、八犬士の1人である
犬川荘介の口を借りて、馬琴が得々と語っている件(本書107~108頁)を紹介する。

斯くも著者は馬琴の考証を高く買っているわけで、考証はたしかに凄いと思うけど、
「ひとり孤城を守って」というところには、ビビビっと違和感が(^_^;) そこで、
曲亭馬琴(小池藤五郎校訂)『南総里見八犬伝(九)』(岩波文庫,1990)149頁の
該当箇所を引用してみる。

  玄宗帝の時、安禄山が乱に、唐の諸臣、位高きも、多く賊に降りしに、
  惟[ひとり]張巡は、孤城を守りて、死に至るまで敢屈せず、・・・

張巡の忠臣ぶりを強調するためでしょうが、虚構・潤色が加わっていますね(-_-)
安禄山の反乱(安史の乱)で「孤城を守りて、死に至るまで敢屈」しなかったのは、
張巡だけじゃないです。しかも張巡が籠城するよりも前に、安禄山が挙兵した直後、

  河北二十四軍、風になびく草のように禄山軍に降伏した中にあって、
  意外なところから禄山の強敵が現われた。平原の太守、顔真卿と、
  常山の太守、顔杲卿の従兄弟同士である。

と寺尾善雄『中国悪党伝』(河出文庫,1990)67頁にある。この史実は、同じように
安禄山について書いたもの(駒田信二『中国大盗伝』[ちくま文庫,2000]71頁とか)
には大抵紹介されています。この顔真卿は王羲之と並んで日本では有名な書法の大家
だからです(この史実は魚住和晃編著『マンガ 書の歴史 殷~唐』[講談社,2004]
にも出てたような記憶が)。顔真卿が歴史に登場するのは、この安禄山が叛乱の兵を
挙げた時だそうですけどね(駒田信二『中国書人伝』[芸術新聞社,1985]98頁)。
それゆえ、手元にある一般向けの歴史書だと、塚本善隆『世界の歴史4 唐とインド』
(中公文庫,1974)447頁にも載ってます。そして、詳述しませんけど、従兄弟である
顔杲卿も文字通り「孤城を守りて、死に至るまで敢屈」しなかった忠臣でしたので、
張巡の列伝が入っている当該『新唐書』忠義列伝と同じ巻に、この顔杲卿の列伝も
並んで入っており、もし本当に馬琴が『新唐書』を読んでいたならば、「唐の諸臣
・・・多く賊に降りしに、惟[ひとり]張巡は、孤城を守りて、死に至るまで敢屈せず」
とは書けないはずでは(^_^;) 馬琴は考証には長けていたけど、残念ながら史実には
疎かったのではないかな(^_^;) 『新唐書』原文が同じだったらゴメンですがm(__)m

本書69頁

  足利政権は一時、尊氏対直義・直冬に分裂するが、尊氏政権の内部でも、執事の
  高師直・師泰兄弟が勢力をたくわえ、主家をしのぐ勢力にのしあがろうとした。
  この兄弟はきわどいところで誅滅されたが・・・

「観応の擾乱」での「分裂」の本質を理解してないのか、時系列の流れが不正確(+_+)

分裂(2頭対立、党派の対立・抗争)を生じさせた本質的な問題は、名著とされる
佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫,1974)に詳しいので略m(__)m

もともと足利直義の勢力と高師直・師泰の勢力とが対立してて、直義が先制するも、
師直のクーデターによって直義はその地位を義詮(足利尊氏の子)に譲ることになる。
師直が尊氏を担いで中国探題だった直冬(尊氏の子だが直義の養子)征討へ出陣すると、
直義党が挙兵し、摂津の打出浜の戦いで尊氏・師直は敗れ、負傷した高兄弟は、
直義党の上杉能憲によって誅殺された、というのが正しい事実経過です(^^)v

著者は三国志読みの日本史知らずのようですな(^_^;)

本書63~64頁

  [太平記]巻三十では、尊氏と直義が和睦したにもかかわらず、諸大名たちが
  不安にかられ、/「おのれが分国へ下つて、本意を達せんとや思ひけん、
  仁木左京大夫頼章は病ひと称して有馬の湯へ下る。舎弟の右馬権助義長は伊勢へ下る。
  細川刑部大輔頼春は讃岐へ下る。佐々木佐渡判官入道道誉は近江へ下る。
  赤松筑前守貞範・甥の弥次郎師範・舎弟信濃五郎範直は、播磨へ逃げ下る。
  土岐刑部少輔頼康は、憚る気色も無く白昼に都を立つて、三百余騎ひたすら合戦の
  用意して、美濃国へぞ下りける。赤松律師則祐は、始めより上洛せで赤松にゐたり
  けるが、吉野殿より、故兵部卿親王(護良親王)の若宮を大将に申し下しまゐらせて、
  西国の成敗を司つて、近国の兵を集めて、吉野・十津川・和田・楠と牒し合はせ、
  すでに都へ攻め上らばやなんど聞えければ、また天下三つに分かれて、合戦止むとき
  あらじと、世の人安き心も無かりけり」/というくだりは、大名が尊氏や直義に
  付き従って、合戦に日を暮らすよりも、自分の領国経営のほうが重要だと、
  てんでに帰国するさまを述べており、約百年後の応仁の乱の起こりが、
  早くもこのころに兆し始めたことがわかる。

観応の擾乱を知ってれば、上記武将たちは尊氏・義詮方と分かるから(田中義成
『南北朝時代史』[講談社学術文庫,1979]183~184頁は「・・・直義方たる細川・
仁木・赤松・佐々木の諸将は、続々として京都を引上げ、各々其国に帰り・・・」
とするが、「直義方」は誤り)、ビビビっと来て、著者の「領国経営のほうが大事」、
「応仁の乱の・・・兆し」という解釈には目が点に(*_*) この太平記の引用部分は、
新田一郎『日本の歴史 第11巻 太平記の時代』(講談社,2001)173頁が叙述する

  ・・・義詮方の武士たちが多く京都を離れて戦に備えるなど・・・

に当たるとフツー解するんじゃね? 検証のため、著者が参照した新潮日本古典集成の
山下宏明校注『太平記 四』(1985)から、その前後(同書383~386頁)を書き写す
([ ]内は小生による注記。「・・・[略]・・・」は本書が引用している部分)。

  将軍兄弟こそ、まことに繊芥の隔ても無く、和睦にて所存も無くおはしけれ。その
  門葉にあつて、附鳳の勢ひを貪つて、攀龍の望みを期するやからは、人の時を得たる
  を見ては猜み、おのれが威を失へるを顧みては、憤りを含まずといふ事無し。されば
  [直義方の]石塔・上杉・桃井は、様々の讒を構へて、将軍[尊氏]に付き従ひ
  たてまつる人々を失はばやと思ひ、[尊氏・義詮方の]仁木・細川・土岐・佐々木は、
  種々のはかりことをめぐらして、錦小路殿[直義]に、また人も無げに振舞ふもの
  どもを滅ぼさばやとぞたくみける。天魔波旬はかかる所をうかがふものなれば、
  いかなる天狗どものわざにてかありけん、夜にだに入りければ、いづくより馳せ
  寄するとも知らぬ兵ども、五百騎、三百騎、鹿谷・北白河・阿弥陀峰・紫野辺に
  集まりて、勢ぞろへをする事度々に及ぶ。これを聞いて将軍方の人は、「あはや
  高倉殿より寄せらるるは」とて肝を冷やし、高倉殿[直義]方の人は、「いかさま
  将軍より討手を向けらるるは」とて用心をいたす。禍ひ利欲より起つて、やむことを
  えざれば、つひに・・・[略]・・・同じき七月晦日、石塔入道・桃井右馬権頭直常
  二人、高倉殿へ参つて申しけるは、「仁木・細川・土岐・佐々木、皆おのれが国々へ
  逃げ下つて、謀叛を起し候ふなる。これもいかさま将軍の御意をうけ候ふか、
  宰相中将殿[義詮]の御教書を以つて勢を催すかにてぞ候ふらん。また赤松律師が
  大塔の若宮を申し下して、宮方をつかまつると聞え候ふも、実は事を宮方に寄せ、
  勢を催して後、宰相中将殿へ参らんとぞ存じ候ふらん。勢も少く御用心も無沙汰にて、
  都におはしまし候はん事いかがとこそ存じ候へ。ただ今夜夜紛れに、篠の峰越えに
  北国の方へ御下り候ひて、木目・荒血の中山を差しふさがれ候はば、越前に修理大夫
  高経、加賀に富樫介、能登に吉見、信濃に諏方下宮祝部、皆無二の御方にて候へば、
  この国々へはいかなる敵か足をも踏ひ入れ候ふべき。甲斐国と越中とはわれ等が
  すでに分国として、相交はる敵候はねば、かたがた以つて安かるべきにて候ふ。
  まづ北国へ御下り候ひて、東国・西国へ御教書を成し下され候はんに、たれか応じ
  申さぬ者候べき」と、また予儀もなく申しければ、禅門少しの思安も無く、「さらば
  やがて下るべし。」とて、取る物も取りあへず、御前に有り逢ひたる人々ばかりを
  召し具して、七月晦日の夜半ばかりに、篠の峰越えに落ちたまふ。  

史料を読むのが大の苦手な小生でも辛抱して読んだら、ちゃんと理解できたぞ(^_^;)
「本意を達せんとや思ひけん」の「本意」=目的を著者は「自分の領国経営」などと
訳の分からん珍解釈するが、党派を把握し文脈を追えば、「本意」とは「種々の
はかりことをめぐらして、錦小路殿[直義]に[仕え]、また人も無げに振舞ふもの
どもを滅ぼさばやとぞたくみける」を指し、〈謀による直義方の殲滅〉と判明(^^)v

ダメ押しに、佐藤・前掲書の「第二次の分裂」(256~257頁)を写しておく。

  尊氏と直義再度の手切れは意外に早くおとずれた。・・・両党の反目と人心の動揺は
  日をおうて高まる。『太平記』の描写をかりれば、/「夜ニダニ入ケレバ・・・[略]
  ・・・トテ用心ヲ致ス」/七月十九日、直義は政務を辞したが、それで事が収まる
  わけはなかった。翌々日、尊氏党の在京諸将、土岐・細川・仁木らが軍勢を率いて
  それぞれの根拠地に下り、同じころ近江の佐々木道誉、播磨の赤松則祐が南朝と
  通じて幕府にそむいた。美濃に下った土岐もたちまちこれに同調した。/七月
  二十八日、尊氏が佐々木征伐に近江に出陣した。直義は義詮といっしょにこれを
  見送ったが、その直後、義詮も播磨の赤松征伐に出陣したと知ると、尊氏父子の出陣
  がじつは東西から自分を挟撃する計画の擬装であることをはっきりと悟った。当時
  尊氏党の有力者が多く地方に下ったのに引きかえて、直義党はほとんど在京している。
  このまま防禦に弱い京都に居すわったら、直義党は殲滅されるかもしれない。直義が
  その一党を率いて急遽北国に向かったのは八月一日の丑刻(午前二時ころ)であった。
  和平は三たび破れた。そしてこの日を最後として直義はついに京都の土をふむことが
  できなかった。

略した部分は本書が引用した太平記の記述の少し前の部分だから、決定的だな(^_^;)
南北朝時代に詳しくないだけかもしらんけど、この件の著者の史料読解は酷すぎ(;_;)

  ・・・というくだりは、大名が尊氏や直義に付き従って、合戦に日を暮らすよりも、
  自分の領国経営のほうが重要だと、てんでに帰国するさまを述べており、
  約百年後の応仁の乱の起こりが、早くもこのころに兆し始めたことがわかる。

だなんて、史料を誤読し史実を無視して、好き勝手に妄想してるわけだ(*_*)

これだと本書の史料を読解部分は眉に唾を付けて読まなきゃならんね(^_^;)

Amazonから「おすすめ商品『三国志談義(文春文庫)』」(ノ ̄皿 ̄)ノナンデヤネン!┫:・’

[追記151217]

下記のコメントを頂戴したが、批判して下さったことに改めて感謝し、補説をしておく(^^)

  玄宗帝の時、安禄山が乱に、唐の諸臣、位高きも、多く賊に降りしに、
  惟[ひとり]張巡は、孤城を守りて、死に至るまで敢屈せず、

と犬川荘介の口を借りて馬琴が得々と語ってる件を本書の著者は紹介し、次の如く高評した。

  馬琴は大作家にならなければ、大学者になっていたかもしれない。これらの例は、
  学術論文に仕立てあげてもおかしくない

疑問に思い、張巡が籠城する前、安禄山の挙兵直後、叛乱軍に降伏する者が続出する状況で、
文字通り「惟・・・孤城を守りて、死に至るまで敢屈」しなかった、顔杲卿の存在を指摘し、
馬琴が挙げた張巡の列伝が入る『新唐書』の同じ巻に顔杲卿の列伝も含まれているのだから、
馬琴が『新唐書』を読んだのなら上記のような叙述にはならないはずでは?馬琴は考証には
長けていたが史実には疎かったのでは?と小生が書いたことに対する御批判のようだ(^^)

なお、本書の著者による馬琴評に疑問を呈しただけで、馬琴に対し含むところはない^_^;
そもそも八犬伝が小生の好きな小説作品であることは、他の記事からも分かるはず(^^)

http://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2015-08-05

だが、顔真卿・顔杲卿や安史の乱を知る人は、本書・八犬伝の記述を不審に思うだろう^_^;

自らの作品を史実に照らして批判された馬琴が批判者を罵った逸話は何かで前に読んでたが、
今調べると、史実と違うと批判された話は「南総里見八犬伝第九輯巻之三十三簡端附録作者
総自評」に出てる「・・・雄飛録の作者、其書の中に、本伝の実録と、年紀合ざるを咎めて、
甚だしく誹りしを、・・・」という件かな(前掲・岩波文庫5頁)。その直前(同4~5頁)に
馬琴が〈錦の御旗〉の如く紹介する見解が興味深いね(^^)

  明の謝肇淛がいへらく、今の人稗史小説を見て、其年紀事実の、正史に合ざるあれば、
  云云といふ者あり、かくの如くならんには、正史を読むに不如。其事の実に過ぎたるは、
  閭巷の小児を悦するのみ、士君子の為に、道に足らずといへり。寔に是巵言なり。

この後、「しかるに近属雄飛録の作者、・・・」と続くわけだ(^^) なお、この謝肇淛の
言説の原典と思われる漢文を、中村幸彦「滝沢馬琴の小説観」日本文学研究資料刊行会編
『馬琴 日本文学研究資料叢書』(有精堂,1974)81頁が引用してるけど、うーん・・・^_^;

とまれ、吉川英治『鳴門秘帖』、中里介山『大菩薩峠』、大仏次郎『赤穂浪士』、子母沢寛
『国定忠治』、直木三十五『南国太平記』などなど錚錚たる大家による大衆小説10作品の
時代考証を手厳しく批判した三田村鳶魚『大衆文芸評判記』(中公文庫,1978)もある(^^)

ただ、フィクションである小説の筋立てを史実に照らし批判するのは筋違いだし、また小説
ならば脚色もアリだろう。でも、この計は孔明ではなく実は張巡の故事なり云々と八犬伝で
犬川荘介が語っている件は、作中の登場人物の口を借りた馬琴自身の語りであると評したが、
率直に言わせてもらうと、これは作品のストーリーを構成する大事な一シーンというより、
実は馬琴が自らの博覧強記ぶりを開陳・誇示したいがために設定・挿入したものでは?と
邪推したくなる件でもあることは、八犬伝の当該箇所を読んだ人なら首肯するはず^_^;

ちなみに、内容が濃くてタメになる八犬伝ファンサイトを運営されている「白龍亭」様も、
当該箇所に関して次のようなコメントをされていて、非常に興味深かった(^^)

  この場面、亭主には「三国演義を真似しているだけじゃなくてちゃんと
  調べているんだよ」という馬琴の言い訳のように感じる。

  http://www.mars.dti.ne.jp/~opaku/hakkenden/sangokuengi.html

では、張巡の話は略して、八犬伝の当該箇所を引用しよう(前掲・岩波文庫149~150頁で、
【】は「原本の欄外注」の由)。場面は、藁人形で箭を集めたのは三国志の孔明じゃないの?
と登桐良于に問われ、この疑問を解いてやれよ、と犬田小文吾が促すシーンから始まり、
犬川荘介は微笑みながら答え始める。

  「然なり。羅貫中が三国志演義の一書は、虚と実と相半して、作り設けし事も少からず。
  譬えば、・・・[略]・・・この他、那演義に見えたる、漢中の闘戦に、孔明が城の門を
  開きて、反て曹操を退けたりといふ事も、其実は、孔明にあらず。則是趙雲なり。趙雲の
  外に、門を開きて敵を退けし者、唐の時にもこれあり。李謹行則是なり。事は唐書第百十、
  李謹行伝に詳なり。又孔明が南蛮攻に、獅子を作りて、孟獲の使ふ猛獣を、権して追奔せし
  といふ事も、其説の出る所、別に父母ある寓言なり。恁る事多かれども、こゝに要なければ
  具にせず、異日別に識すべし。蓋士君子の、稗史、物の本を悦ぶは、是学問の余楽のみ。先
  よく眼を史伝に晒して、其見ること博からざれば、誰か虚実を分別して、作者の隠微を発明
  せんや。こゝをもて今洒家は、敵の箭を拿る故事を談ずるに、三国演義を取ずして、唐書の
  張巡伝を引るなり。然まで疑ふことかは。」【毛鶴山が三国志演義の評注、又、金聖歎が
  外書にも是等の虚実を弁ぜざれば猶飽ぬこゝちす。因て聊是に及べり。婦幼の為には厭る
  べし】と解れて感ずる良于・重時・就介・再太郎に至るまで、耳新しく思ひける。

この後、感心した良于から褒め称えられた荘介が、犬塚信乃の「幇助によりて、和漢の史伝を、
見ることを得たるのみ。」云々と謙遜して話が終わると、次節冒頭に「間話休題。」とあるし、
コレと「原本の欄外注」の内容が全てを物語ってる(^^) ペダンチックなのを「婦幼の為には」
と恒例のフレーズで正当化する口吻から、この荘介の講釈は本伝本筋から完全に逸脱してると
馬琴自身も自覚してたっぽいよね。元ネタあんの知ってっか?とばかり鼻高々に書いたけど、
ハッと醒めて、極りが悪くなり、言い訳がましく「間話休題」と継いで更に欄外に注までした
馬琴の執筆姿を想像しちゃうね^_^; 橋本四郎「里見八犬伝の文体とその文語~文語史研究の
基礎として」前掲『馬琴 日本文学研究資料叢書』217~218頁も次のように分析してる。

  全編を通じて「あだしことはさておきつ」といふ言葉がしばしば目につくが、後日譚を
  述べてそのエピソードに結末をつけておく場合の他に、筋から浮き上がった学識披露の
  言ひわけの場合も多いのである(6-四〇一他)。「見る人作者の用意を知るべし」(3-
  五二一他)も目につく言葉で同じ場合に用ゐられる。

現に、この「間話休題。」には「あだしことはさておきつ」とルビが振られているし、この
「原本の欄外注」もまた「筋から浮き上がった学識披露の言ひわけの場合」に該当だな(^^)

作者が読者に対して斯くも言い訳を重ねざるを得なかった荘介の講釈シーンが〈小説なら脚色
は当然〉と免罪符が与えられるケースか? これは小説の本筋とは無関係の馬琴の考証披露に
すぎないよね。それに、そもそも考証に求められるのは、脚色よりも緻密さではないかしら(^^)

よく「婦幼の為」とか言うけど、「正史を読む」ことができず、「和漢の史伝を、見ることを
得」ない「婦幼」が、馬琴による「虚構・潤色が加わっ」たため、忠臣(忠義や忠節を大事に
してたよね?)に関して不正確な歴史的知識を習得してしまうことも「婦幼の為に」なるの?

脚色せず孔明の計の場面は唐書の張巡伝が元ネタであると淡々と指摘すべきだったよね^_^;

本書の著者も結果として読者をミスリードしていることも指摘しておくが、この補論の〆は、
内田魯庵「八犬伝談余」前掲『南総里見八犬伝(十)』373頁の一節を引いておこう^_^;

  馬琴自身が決して歴史の参考書として小説を作ったのでないのは明らかで、
  多少の歴史上の錯誤があったからとて何ら文芸上の価値を累するに足らないのである。
  馬琴の作が考証精覈で歴史上または地理上の調査が行届いてるなぞと感服するのは
  贔屓の引倒しで、馬琴に取ってはこの上もない難有迷惑であろう。

[追記160322]

大谷東平『台風の話』(岩波新書,1955)で「台風の語源」について読み、興味深かった(^^)
要約すると、中国語では台風のことを「颶風」と言い、台風の前兆現象(台風襲来前に現れる
特別な形をした雲など)を「颶母」や「風胎」と呼んでいたが、この「風胎」が台湾などでは
台風そのものを指すようになり、その後、「風颱」と書かれるようになった由(同書57頁)。
そして、この「颱」という字は、古い中国の辞書にはなくて、比較的新しい字だそうで、
この字が初めて現れたのは「福建誌」であり、清朝の「台湾府誌」にも出てくる由(同58頁)。

  ところが、これが日本文に引用されたときに、いささか意味がちがってきたらしい。
  日本で颱という字を最初に使ったのは、曲亭馬琴の「椿説弓張月」の中で/

    それ大風烈しきを颶[はやて]といふ。又甚きを颱[あかしま]と稱ふ。
    颶はにわかに起り颱は漸くありて來る。颶はまたたきのうちに發りてたちまち止み、
    颱は一晝夜或は數日にして止まず。・・・

と「椿説弓張月」の後篇の冒頭の該当する一節を引用し、更に解説も加えた上で(同58頁)、
同59頁は次のように指摘していた。

  馬琴は琉球のことをよく調べていたから、これは琉球の名護寵文の「図南広義」からとった
  ものだろうということになっている。その原典は、もちろん前出の福建誌か台湾府誌なの
  だろう。/ただここで注意したいのは、颶が元来は台風の意味であったのが、いつの間にか
  早手にかわってしまっていることである。台湾府誌などでは、明かに颶の中、特に強いものを
  颱というといっていたのに、馬琴の文中では別の早手の意味に用いられてしまっている。

馬琴の原典読解能力はどう解すればいいのか^_^;「図南広義」の原文記述がどうなってるのか、
また、その原典が福建誌か台湾府誌と分かるような記述になっているのか、等によるけどね^_^;
ただ、嘉手納町の副読本『甘藷と野國總管~甘藷の発信基地・嘉手納』では「盗作」の汚名^_^;

  http://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/130.html

  滝沢馬琴といえば、江戸時代の有名な小説家で、『南総里見八犬伝』は知っている人も
  多いと思います。馬琴の著書『弓張月』の中に、沖縄が生んだ学者・程順則(名護親方)が
  著わした『指南広義』という本の中の「風信号」の一節がそっくりそのまま取り入れられて
  います。その中では「颱」(台風)と「颶」(温帯低気圧)をはっきり区別し、その違い
  にもふれています。ところが、実は程順則の「風信号」のまる写しであったのです。
  現代風にいえば、「盗作」ということになります。

なお、「椿説弓張月」の当該一節は、高橋浩一郎『日本の天気』(岩波新書,1963)101頁の章扉
にも掲げられているけど、「はやて」という肝心なルビが付されてない(+_+)
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コメント 2

あ

馬琴は一々史実にこじつけて批判する馬鹿がいると嘆いていたっけなぁ(笑)
多少の脚色入って当たり前だろ
つまらん俗物ブログだな^^
by (2015-12-12 15:03) 

middrinn

拙文をお読み下さり、コメントまで残して頂き、恐縮ですm(__)m
おっしゃる通り、脚色だったのかもしれませんね^_^;
取り急ぎ、御礼までm(__)m
by middrinn (2015-12-12 18:33) 

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